2019年



《掲示板》

◎1月の行事
1月 1日(火):『民権館通信12号』発行
1月 2日(水):予約客様
1月 7日(月):七草粥
1月11日(金):秀峯忌(板倉比左顕彰)
1月13日(日):地域行事
1月15日(火):予約客様
1月18日(金):川名七郎顕彰忌
1月25日(金):予約客様

◎民権林園
☆収穫:里芋(平作)、春菊(平作)
☆植付:
☆花々:水仙(白・黄)、バラ(アイスバーグ・白)
☆災害:熊本市で地震(震度6弱)、タイで大雨洪水、口永良部島で大噴火。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(1月)
□論文「嶺田楓江の生涯と詩業」『新しい漢字漢文教育・第34号』(全国漢文教育学会2002年6月10日)
□書籍『Pocket Drugs 2016』(医学書院2016年1月1日)
□書籍『忘らえぬかも・第10号(20周年記念号)』(大網白里市郷土史研究会2018年4月1日)
□雑誌『日本史の研究263』(山川出版社2018年12月)
□企画展チラシ「蔵の中のワンダーランドⅡ・薫陶学舎と嶺田楓江」(いすみ市郷土資料館2018年11月3日~2019年2月11日)

《民権館歳時記》

☆今年から、平仄の記号(平=○、仄=●、押韻=◎)を変更します。漢詩研究の碩学に敬意を表し、小川環樹著『唐詩概説』所載の記号を踏襲します。

☆「―」は平声(ひょうしょう)、「<」は仄声(そくせい)、「韻」は押韻です。《  》は模範率、(    )はフリガナ、※は筆者の注記です。訓読と注釈の活字は新字体にしました。

☆今月は新年の漢詩を鑑賞しましょう。

加藤霞石(かとう・かせき)「壬寅元日(じんいんがんじつ)」

1842(天保13、壬寅)年1月元旦
□平仄と押韻(七言絶句・仄起・八庚)《24/28=85.7%》
満枕春風吹夢清       ↓平仄の模範
<<――<<―       
<<――<<韻
看遠岫早霞生
<―<<<――       
――<<<―韻
房山
天下
―――<<―<       
――<<――<
数鶯児出谷聲
―<――<<―       
<<――<<韻
(『玉池吟社詩一集・巻一』1845年)、(『安房先賢遺著全集』1939年)
赤字は平仄の不規則(許容範囲)。

□訓読
満枕(まんちん)の春風(しゅんぷう)夢(ゆめ)を吹(ふ)き清(す)む
起(おき)て看(み)る遠岫(えんしゅう)早霞(そうか)の生(しょう)ずるを
房山(ぼうざん)の陽気(ようき)天下(てんか)に最(さい)たり
無数(むすう)の鴬児(おうじ)谷(たに)を出(いず)る声(こえ)
※『玉池吟社詩一集』の訓点通りに訓読しました。『安房先賢遺著全集』は訓点の無い白文です。

□注釈
 加藤霞石の満40歳の時の七言絶句です。
 起句の「春風吹夢(しゅんぷうゆめをふき)」は、新年の夢の中に吹く春風という意味に解釈しました。「清(すむ)」は、「清(きよ)し」又は「清(すが)し」と訓読しても良いでしょう。
 承句の「遠岫(えんしゅう)」は遠くの山間を指し、「早霞(そうか)」は朝霞(あさがすみ)と同義です。南房総の新年の風景描写です。
 転句の「房山(ぼうざん)」は房総丘陵のことで、千葉県最高峰の愛宕山でさえ408メートルの低山です。“房州の山の低さよ春の雲”(凡一旧句)。
 結句の「無数鶯児(むすうのおうじ)」は幾分誇張が有ると思われますが、「鴬(うぐいす)」は新春作の漢詩の常套語です。江戸時代の後期ですから時節は陰暦の正月で、現代の西暦では2月上旬の立春の頃を想定すべきでしょう。
 不規則の文字は承句の「起(<)」、転句の「陽(―)」と「最(<)」、結句の「無(―)」で、28字中の24字が規則通りに作詩されています。模範率は85.7%(許容範囲)になります。
 押韻は起句の「清(―)」、承句の「生(―)」、結句の「声(―)」で、すべて「下平(かひょう)」の「八庚(はっこう)」に属します。

□加藤霞石・玄章略年譜
・1802(享和2)年
加藤霞石誕生(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』)。
・1823(文政6)年
12月15日、鱸(鈴木)松塘誕生(『安房先賢偉人伝』、『三芳村史』)。
・1828(文政11)年
加藤玄章誕生(『安房医師会誌』、『富山町史』)。
※玄章は霞石の次男。玄章の妻(登代)は松塘の妹。
・1845(弘化2)年
『玉池吟社詩一集・巻一~巻五』発行(同書、『梁川星巌全集第5巻』年譜)。
※嶺田楓江、加藤霞石、加藤権(玄章)、鱸松塘等の漢詩を収載。
・1852(嘉永5)年
3月、加藤淳造誕生(『安房先賢偉人伝』、『千葉県議会史議員名鑑』)。
※淳造の父は玄章、母は登代。
・1866(慶応2)年
加藤霞石編『品石風雅』発行(同書)。
・1873(明治6)年
4月1日、加藤霞石他界(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』)。
・1877(明治10)年
4月、鱸松塘編『七曲吟社閨媛絶句』発行(同書)
※『七曲吟社閨媛絶句』は貴重な女性漢詩集。川路芳洲は薩摩出身、鱸采蘭(すずき・さいらん)は鱸松塘の長女。鱸蕙畹(すずき・けいえん)は鱸松塘の次女で、加藤淳造と結婚。
・1878(明治11)年
11月2日、重城保に安房四郡(安房・平・朝夷・長狭・)々長の辞令(『重城保日記』)。
・1879(明治12)年
1月20日、重城保「早春次韻加藤玄章(七律)」(『重城保日記』、『青崖詩鈔』)。
5月19日、吉田与兵衛「偶成(七絶)」(『重城保日記』、『報知新聞』)。
8月16日、コレラ患者21名程、布良村の漁民竹槍蓆旗、加藤玄章来談(『重城保日記』)。
・1880(明治13)年
4月26日、『日本閨媛吟藻』版権免許、鱸采蘭(姉)と鱸蕙畹(妹)の漢詩収載(同書、『詞華集・日本漢詩第11巻』)
6月9日、重城保「題霞石翁遺愛石(七絶)」(『重城保日記』、『青崖詩鈔)。
・1881(明治14)年
2月21日、君津三郡(望陀・周准・天羽)々長の内示(『重城保日記』)。
・1882(明治15)年
7月24日、加藤玄章他界(『安房医師会誌』、『富山町史』)。
・1885(明治18)年
9月10日、『七曲吟社詩巻五~巻八』御届、鱸采蘭(姉)と鱸蕙畹(妹)の漢詩収載(同書、『詞華集・日本漢詩第11巻』)
・1898(明治31)年
12月24日、鱸(鈴木)松塘他界(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』、『三芳村史』)。
・1914(大正3)年
10月13日、加藤淳造他界(『安房先賢偉人伝』、『千葉県議会史議員名鑑』)。
※淳造は医師で自由党代議士。
・1922(大正11)年
12月16日、加藤登代他界(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』)。
※登代は松塘の妹で玄章の妻、淳造の母。

高木抑斎(たかぎ・よくさい)「甲寅元日(こういんがんじつ)」
1854(安政元、甲寅)年1月元旦
□平仄と押韻(七言律詩・平起・十一眞)《54/56=96.4%》
終年不肯眯紅塵        ↓平仄の模範
――<<<――       
――<<<―韻
恰到今朝眼更新
<<――<<―        
<<――<<韻
気纔晴還帯雨
―<―――<<       
<<―――<<
花香驟暖欲薫人
――<<<――        
――<<<―韻
池頭浅草穿軽屐
――<<――<        
――<<――<
竹裡啼鴬岸角巾
<<――<<―       
<<――<<韻
首頻驚風信早
―<―――<<        
<<―――<<
唫邉己動二分春
――<<<――        
――<<<―韻
  甲寅元日 抑斎貞
(掛け軸)
赤字は平仄の不規則(二字のみ)。

□訓読
終年(しゅうねん)紅塵(こうじん)に眯(くら)むを肯(がえん)ぜず
恰(あたか)も今朝(こんちょう)に到(いた)りて眼(まなこ)更(さら)に新(あらた)なり
山気(さんき)纔(わずか)に晴(は)れ還(ま)た雨(あめ)を帯(お)ぶ
花香(かこう)驟(にわか)に暖(あたたか)く人に薫(かお)らんと欲(ほっ)す
池頭(ちとう)浅草(せんそう)軽屐(けいげき)を穿(は)き
竹裡(ちくり)啼鴬(ていおう)岸(きし)の角巾(かくきん)
首(こうべ)を回(めぐ)らせば頻(しきり)に風信(ふうしん)の早(はや)きに驚(おどろ)く
唫辺(ぎんぺん)己(おの)ずから動(うご)く二分春(にぶんしゅん)
   甲寅(こういん)元日(がんじつ)抑斎(よくさい)貞(てい)
※訓読の先例が無いので筆者の責任で訓読をおこないました。「掛け軸」については『村の医者どん(展示図録)』(館山市立博物館1908年)等を参照しました。

□注釈
 1854(安政元)年は、ペリー来航の翌年です。医師の高木抑斎(士幹)は1814(文化11)年に誕生し、 1877(明治10)年7月28日に他界しました(『安房医師会誌』)。墓碑は館山市高井にあります。
 第1句の「紅塵(こうじん)」は浮世の塵のことで、「俗塵」と同義です。「眯(くら)む」は「眩(くら)む」と同義です。
 第3句と第4句は対句で、「山気(さんき)纔(わずか)に晴(は)れ」と「花香(かこう)驟(にわか)に暖(あたたか)く」が対応しています。「花香」は花の香りです。
 第5句と第6句も対句で、「池頭(ちとう)浅草(せんそう」と「竹裡(ちくり)啼鴬(ていおう)」が対応していると言えるでしょう。「竹裡啼鴬」は旧暦新春の常套詩句です。「屐(げき)」は木製の履物のことです。
 第7句の「風信(ふうしん)」は、ペリーの再来航と「日米和親条約」締結をめぐる風聞を指していると思います。
 第8句の「二分(にぶん)」は、「春分点と秋分点」のことか、「二分する」という動詞か決めかねました。詩意としては、身の回りで春(孟春・仲春・季春)が立春(陰暦1月上旬)から春分(陰暦2月下旬)へ自ら転化するということでしょう。
 この七言律詩は平仄の規定を厳守して作詩されており、ほぼ完璧(96.4%)な構成です。押韻は第1句の「塵(―)」、第2句の「新(―)」、第4句の「人(―)」、第6句の「巾(―)」、第8句の「春(―)」で、すべて上平(じょうひょう)の十一眞(じゅういちしん)に属します(小川環樹『唐詩概説』)。
 律詩(56文字)をこれだけ仕上げるには、熟達した技巧が必要であると思います。高木抑斎は、新都東京で漢詩結社「七曲吟社(ななまがりぎんしゃ)」を主宰した鱸松塘(すずき・しょうとう)と深い交流が有りました。
 高木抑斎(士幹・貞)の漢詩は『七曲吟社詩・巻一~巻四』(1879年)に収載されています。同書は『詞華集・日本漢詩第11巻』(汲古書院1984)に再録されました。
 抑斎(士幹)の人柄は、「墓誌銘」に「米艦(べいかん)浦賀(うらが)洋に出没し、志士憤激す。而(しか)れども幕吏(ばくり)因循(いんじゅん)偸安(とうあん)、朝旨(ちょうし)を奉ぜず。士幹(しかん)幕吏の姦(かん)を悪(にく)み・・・幽憤子(ゆうふんし)と号す(原漢文)」と記述されています(蒲生重章『褧亭文鈔(けいていぶんしょう)・下巻』1897年)、(『安房医師会誌』1974年)。
 抑斎(士幹)は悲憤慷慨型の文人医師であったようです。長男の高木静斎は明治前期に立憲改進党に入党し、島田三郎や田中正造と交流しています(後述予定)。

□高木抑斎・静斎略年譜
・1814(文化11)年
高木抑斎誕生(『安房医師会誌』)。
・1843(天保14)年
高木静斎誕生(『安房医師会誌』)。
※静斎は抑斎の長男。
・1877(明治10)年
7月28日、高木抑斎他界(『安房医師会誌』)。
・1879(明治12)年
7月26日、『七曲吟社詩巻一~巻四』御届、高木抑斎漢詩収載(同書)
・1884(明治17)年
12月20日、蒲生重章『近世偉人伝・義集第2編』版権免許、「高木抑斎傳」記載(同書)。

1889(明治22)年
・8月23日、三尾重定『房陽奇聞、一名民事ノ魁(ぼうようきぶん・いちめいみんじのさきがけ)』出版、高木静斎「題三尾先生新著房陽奇聞(七言絶句)」掲載。
1898(明治31)年
・9月20日、蒲生重章『褧亭文鈔・初編』印刷出版、「高木士幹墓誌銘」記載(同書)。
1907(明治40)年
・3月25日、高木静斎『西遊漫唫(漢詩集)』発行(同書)。
1918(大正7)年
・12月13日、高木静斎他界(『安房医師会誌』)。

高木静斎「壬戌元旦(じんじゅつがんたん)」
1862(文久2、壬戌)年1月元旦
□平仄と押韻(七言律詩・仄起・十一眞)《46/56=82.1%》
瑞雪
門松竹新       ↓平仄の模範
<<<―<<―       
<<――<<韻
前風物又逢春
<―<<<――       
――<<<―韻
閲世
空思文
<<<<―<<       
――<<――<
傷時
禹湯臣
―――<<<―       
<<――<<韻
賊騎紛々馳郭裏
<<―――<<       
<<―――<<
胡塵漠々捲江濱
――<<<――       
――<<<―韻
腔慷慨誰訴
<―<<<―<       
――<<――<
獨酌屠蘇暫展顰
<<――<<―       
<<――<<韻
  壬戌元旦 静斎山人
(掛け軸)
赤字は平仄の不規則。

□訓読
瑞雪(ずいせつ)門(もん)を擁(いだ)き松竹(しょうちく)新(あらた)なり
眼前(がんぜん)風物(ふうぶつ)又(ま)た春(はる)に逢(あ)う
世(よ)を閲(けみ)すれば空(むな)しく思(おも)う文(ぶん)武(ぶ)の政(まつりごと)
時(とき)を傷(いた)みて頻(しきり)に慕(した)う禹(う)湯(とう)の臣(しん)
賊騎(ぞくき)紛々(ふんぷん)として郭裏(かくり)に馳(は)す
胡塵(こじん)漠々(ばくばく)として江濱(こうひん)に捲(ま)く
満腔(まんこう)の慷慨(こうがい)誰(たれ)に向(むか)いて訴(うった)えん 
獨酌(どくしゃく)屠蘇(とそ)暫(しばら)く顰(ひん)を展(の)ばさん
   壬戌元旦(じんじゅつがんたん)静斎(せいさい)山人(さんじん)
※訓読の先例が無いので筆者の責任で訓読をおこないました。

□注釈
 高木静斎は1843(天保14)年に誕生し。 1918(大正7)年12月13日に他界しました。
 第1句の「瑞雪(ずいせつ)」はお目出度い日の降雪を言います。
 第3句と第4句は対句で、「文(ぶん)武(ぶ)」と「禹(う)湯(とう)」が対応しています。「文」王は中国の周の建国者です。「武」王は「文」王の子です。「禹」は夏の始祖で、「湯」は殷の王です。静斎は、古代の聖人と幕末の政治を比較し慨嘆しています。
 第5句と第6句も対句で、「賊騎(ぞくき)紛々(ふんぷん)」と「胡塵(こじん)漠々(ばくばく)」が対応しています。「紛々」は入り乱れること、「漠々」は埃が舞い上がることです。
 第8句の「顰(ひん)を展(の)ばさん」は、正月なので息抜きをしようという意味です。
 押韻は第1句の「新(―)」、第2句の「春(―)」、第4句の「臣(―)」、第6句の「濱(―)」、第8句の「顰(―)」で、すべて上平(じょうひょう)の十一眞(じゅういちしん)に属します。静斎の七言律詩と前掲の抑斎の七言律詩は同一の押韻です。抑斎と静斎は医師で、父子です。

(2019年1月)



《掲示板》

◎2月の行事
2月 3日(日):節分
2月 5日(水):税理士相談会(確定申告)
2月11日(月):地域行事
2月13日(水):国際交流
2月17日(日):地域行事
2月20日(水):新味噌仕込み(資料館栽培有機大豆)
2月27日(水):国際交流

◎民権林園
☆収穫:三つ葉(平作)、春菊(平作)
☆植付:馬鈴薯
☆花々:水仙(白・黄)、椿(白・紅・桃)
☆災害:アメリカ東部大寒波、北海道に-30度の大寒波。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(2月)
□書籍『論語のことば』(明徳出版社2012年3月20日)
□通信『評論№213』(日本経済評論社2019年1月31日)
□雑紙『ちば・教育と文化№92』(千葉県教育文化研究センター2019年1月31日)
□企画展チラシ「蔵の中のワンダーランドⅡ・薫陶学舎と嶺田楓江」(いすみ市郷土資料館2018年11月3日~2019年2月11日)
□古書目録『永森書店第33号』(2019年2月)



《民権館歳時記》

☆今月は房総の著名な民権家で、漢詩人でもあった板倉中(いたくら・なかば)の漢詩を鑑賞しましょう。

☆『春峯詩稿(しゅんぽうしこう)』は合計361首の漢詩(七言絶句、七言律詩、七言古詩、五言絶句、五言律詩、五言古詩)を収載しています。目次には337首と記載されていますが、総計すると361首になります。※目次の詩題に複数首を列記したものが有ります。

☆内訳は以下の通りです。七言絶句や七言律詩の多いことが分かります。
○七言絶句:280首
○七言律詩: 37首
○七言古詩:  7首
○五言絶句: 14首
○五言律詩: 18首
○五言古詩:  5首
※合  計:361首

☆「春峯(峰)」は板倉の雅号です。漢詩集(刊本)は「峯」の活字を使用しています。経歴については下記の略年譜を参照して下さい。

☆平仄の記号は、「―」が平声(ひょうしょう)、「<」が仄声(そくせい)、「韻」は押韻です。《  》は模範率、(    )はフリガナ、※は筆者の注記です。訓読と注釈の活字は新字体にしました。

☆先ず、弊館所蔵の「掛け軸」から始めましょう。

板倉春峯(いたくら・しゅんぽう)「勿来惟古之一(なこそいこのいち)」
 年月不詳(古書店購入、落款有)

□平仄と押韻(五言絶句、平起、上平十五刪)《19/20=95.0%》
松青一帯    ↓平仄の模範
<--<<     
---<<
薄暮月斑

<<<--     
<<<-韻
落葉蟲聲裡
<<--<     
<<--<
秋風渡古

--<<-     
--<<韻
 勿来惟古之一 春峰並書
(弊館所蔵「掛け軸」)
赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(十五刪)。

□訓読
老松(ろうしょう)一帯(いったい)に青(あお)し
薄暮(はくぼ)に月(つき)斑々(はんぱん)たり
落葉(らくよう)虫声(ちゅうせい)の裏(うち)に
秋風(しゅうふう)古関(こかん)を渡(わた)る
 勿来(なこそ)惟古(いこ)之(の)一(いち) 春峰(しゅんぽう)並書(へいしょ)
※訓読の先例が無いので筆者の責任でおこないました。

□注釈
 平仄の規定を厳守した作品で、模範率は19/20=95.0%です。押韻は承句の「斑(―)」、結句の「関(―)」で、「上平(じょうひょう)」の「十五刪(じゅうごさん)」に属します。
 20年程前に古書店から購入しました。書体は板倉中自筆の書簡(南房総市加藤家文書、茂原市齊藤家文書、稲敷市高城家文書)と同一です。揮毫年代は不詳ですが、大正期に福島県を旅行し、「勿来関(なこそのせき)」を詠んだものが『春峯詩稿』の中に二首有ります(後述)。

☆次に板倉の初期作品を鑑賞しましょう。

板倉春峯(いたくら・しゅんぽう)「明法学舎口占(めいほうがくしゃこうせん)」
 1878年冬

□平仄と押韻(七律、仄起、上平六魚)《52/56=92.9%》
迹何時得晏      ↓平仄の模範
-<--<<-     
<<--<<韻
風奔露宿遠郷

--<<<--     
--<<<-韻
胸中猶蓄憂時志
--<<--<     
--<<--<
机上常繙経国

<<--<<-     
<<--<<韻
片朝朝来又歇
-<---<<     
<<---<<
明夜夜満還
<-<<<--     
--<<<-韻
寒燈一穂幽窓下
--<<--<     
--<<--<
夢繞南
旧草(蘆)
<<-<<<-     
<<--<<韻
(『春峯詩稿』1934年)
赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(六魚)。第8句の押韻は「廬(六魚)」が正しく、「蘆(七虞)」では不統一(誤植か?)。

□訓読
身迹(しんせき)何(いず)れの時(とき)か晏如(あんじょ)を得(え)ん
風(かぜ)奔(はし)り露(つゆ)宿(やど)りて郷閭(きょうりょ)遠(とお)し
胸中(きょうちゅう)猶(なお)憂時(ゆうじ)の志(こころざし)を蓄(たくわ)うるがごとく
机上(きじょう)常(つね)に繙(ひもと)く経国(けいこく)の書(しょ)
雲片(うんぺん)朝朝(ちょうちょう)来(き)たりては又(また)歇(や)む
月明(げつめい)夜夜(よよ)満(み)ちては虚(こ)に還(かえ)る
寒燈(かんとう)一穂(いっすい)幽窓(ゆうそう)の下(もと)
夢(ゆめ)は繞(めぐ)る南総(なんそう)旧(ふる)き草廬(そうろ)
※訓読の先例が無いので筆者の責任でおこないました。

□注釈
 1877(明治10)年5月19日、大井憲太郎は東京府知事に「明法学舎(めいほうがくしゃ)」の開業願を提出しています(『都市民権派の形成』吉川弘文官1998年)。板倉中(春峯)は同舎において代言人(弁護士)資格取得の勉強をしました。
 平仄の模範率は52/56=92.9%で、律詩としては大変完成度の高い数字です。平仄の逸脱は第1句の「身」、第5句の「雲」、第6句の「月」、第8句の「総」の四字のみです(許容範囲)。七言律詩56文字中の52文字が平仄の規定通りです。
 第3句と第4句は対句で、「胸中」と「机上」、「憂時」」と「経国」が対応しています。第5句と第6句も対句で「雲片」と「月明」、「朝朝」と「夜夜」が対応しています。若々しく非凡な対句です。板倉中の維新開化期の「憂時志」は、その後の民権派代言人としての活動に繋がったと言えるでしょう。
 板倉は少年時代に「韻目(いんもく)」に関する蔵書を学習したと記述しています(板倉中『経世危言』東京博文館1902年)。押韻は上平(じょうひょう)の「六魚」なので、第8句の「蘆(七虞)」が不統一になります。「蘆」は誤植ではないかと考え、筆者の責任で「廬」に訂正しました。

富松繰江(とみまつ・そうこう)「遺吟(いぎん)」
 1886年10月5日頃(推定)

☆板倉中は「加波山事件」被告の富松正安(繰江)の弁護人を務めました。「繰江(そうこう)」は富松の雅号です。房総の民権家が匿(かくま)った富松の漢詩を検討し、人物像について考えてみましょう。

☆『加波山事件関係資料集』(三一書房1970年)には、富松の31首の漢詩(五絶2首、七絶27首、七律1首、七古1首)が収載されています。

□平仄と押韻(七絶、平起、下平八庚)《23/28=82.1%》
倒任人       ↓平仄の模範
<--<<--       
--<<<-韻
一片丹心如火

<<--<<-       
<<--<<韻
識孤囚満腔
-<--<-<       
<<---<<
澆成膏雨湿蒼

--<<<--       
--<<<-韻
(関戸覚蔵『東陲民権史』養勇館1903年)
赤字は平仄の不規則(許容範囲)、
青字は押韻(八庚)。

□訓読
是非(ぜひ)顚倒(てんとう)人(ひと)の評(ひょう)に任(まか)す
一片(いっぺん)の丹心(たんしん)火明(ひあかり)の如(ごと)し
誰(たれ)か識(し)る孤囚(こしゅう)満腔(まんこう)の血(ち)
澆(そそ)ぎて膏雨(こうう)と成(な)り蒼生(そうせい)を湿(うるお)さん
※訓読に当たっては、林基・遠藤鎮雄編『加波山事件』(東洋文庫1966年)を参照しました。結句は他の獄中詩を勘案し、筆者の責任で独自に訓読しています。

□注釈
 起句に2文字、転句に3文字の平仄の不規則が見られます。承句と結句には逸脱が無く規定通りです。平仄の模範率は23/28=82.1%になります。
 七言詩の平仄の規則に、「二四不同(にしふどう)」(第二字と第四字は逆の平仄)、「二六対(にろくつい)」(第二字と第六字は同一の平仄)がありますが(小川環樹『唐詩概説』)、「遺吟」は概ね順守されています。転句に平仄の乱れがあるのは、獄中の辞世の故でしょうか。
 押韻は起句の「評(―)」、承句の「明(―)」、結句の「生(―)」で、すべて下平(かひょう)の「八庚(はっこう)」に属します。
 起句の「是非(ぜひ)顚倒(てんとう)」と、結句の「膏雨(こうう)と成(な)り蒼生(そうせい)を湿(うるお)さん」は、富松の末期(まつご)の民権主義を象徴する詩句と言えます。
 「膏雨(こうう)」は恵みの雨を意味し「慈雨(じう)」と同義です。「蒼生(そうせい)」は「人民」又は「民衆」を意味します。

富松繰江(とみまつ・そうこう)「獄中詩(ごくちゅうし)」、寒川(さむがわ)監獄
 1884年10月~1886年10月5日の間

□平仄と押韻(七絶、仄起、下平七陽)《26/28=92.8%》
有約辞家向総
       ↓平仄の模範
<<--<<―       
<<--<<韻
秋風吹艦水汪

--<<<--       
--<<<-韻
遺心啻為波山月
--<<--<       
--<<--<
金蘭
良朋在故
----<<-       
<<--<<韻
(『加波山事件関係資料集』三一書房1970年
赤字
は平仄の不規則(許容範囲)、
青字は押韻(七陽)。

□訓読
約(やく)有(あ)り家(いえ)を辞(じ)し総房(そうぼう)に向(む)かう
秋風(しゅうふう)艦(かん)を吹(ふ)き水(みず)汪洋(おうよう)たり
遺(のこ)れる心(こころ)啻(ただ)波山(ばさん)の月(つき)に為(な)るのみ
金蘭(きんらん)良朋(りょうほう)故郷(こきょう)に在(あ)り
※訓読は『平群村誌』と『富山町史』の先例(異稿)を参照しましたが、筆者の責任で独自に訓読しています。

□注釈
 平仄の不規則は結句の二字「金(―)」と「蘭(―)」のみで、模範率は26/28=92.8%になります。押韻は「房(―)」、「洋(―)」、「郷(―)」で、すべて「下平(かひょう)」の「七陽(しちよう)」に属します。七言絶句の規則を厳守した完成度の高い獄中詩です。
 このような教養人であったが故に、房総の多くの民権家が援護の手を差しのべたのでしょう。富松正安の父は下館(しもだて)藩主に仕えた漢学者でした(『自由民権〈激化〉の時代』日本経済評論社2014年)。
 起句の「約(やく)有(あ)り」は、広域蜂起の際の相互援助について共通理解があったということを意味します。
 承句の「水(みず)汪洋(おうよう)たり」は、東京湾の逃避行であったと考えます。「汪洋」は、広くゆったりしていることを意味します。
 転句の「波山(ばさん)」は茨城県の加波山のことです。年下の同志であった玉水嘉一の「掛け軸」には、「樺山」と墨書されています。
 結句の「金蘭(きんらん)」は、中国の『易経』や日本の『懐風藻』に見える「金蘭の契(ちぎ)り」(友情の固い絆)という故事を踏まえています。「良朋(りょうほう)」は下館の自由党員仲間を指しているでしょう。
 下館藩出身の士族であった玉水嘉一(無期徒刑、1894年特赦放免)は、剣術道場を営みながら生涯にわたって富松正安(繰江)の菩提を弔いました。

(2019年2月)


《掲示板》

◎3月の行事
3月 3日(日):雛祭り
3月 5日(水):新味噌仕込み②(資料館栽培有機大豆)
3月13日(水):国際交流
3月17日(日):漢詩資料調査(出張)
3月21日(木):春分の日、墓参
3月27日(水):予約客様

◎民権林園
☆収穫:三つ葉(平作)、春菊(平作)、蕗の薹(豊作)、芹(平作)
☆植付:馬鈴薯、大根
☆花々:水仙(白・黄)、椿(白・紅・桃)、サンシュユ(黄)
☆災害:3・11東日本大震災8周年

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(2月)
□書籍『論語のことば』(明徳出版社2012年3月20日)
□雑紙『ちば・教育と文化№92』(千葉県教育文化研究センター2019年1月31日)
□古書目録『永森書店第33号』(2019年2月)



《民権館歳時記》

☆『春峯詩稿(しゅんぽうしこう)』は合計361首の漢詩(七言絶句、七言律詩、七言古詩、五言絶句、五言律詩、五言古詩等)を収載しています。目次には337首と記載されていますが、総計すると361首になります。目次の詩題に複数首を記載したものが有ります。

☆詩体の内訳は以下の通りです。
○七言絶句:280首
○七言律詩: 37首
○七言古詩:  7首
○五言絶句: 14首
○五言律詩: 18首
○五言排律:  3首
○五言古詩:  2首
※合  計:361首

☆詩体の区分については、小川環樹の名著『唐詩概説』(岩波文庫等)の第6章を参照しました。「五言排律(ごごんはいりつ)」は10句以上の五言詩で、韻律の規定に従った詩体を指します。「七言古詩」と「五言古詩」は句数不定の詩体ですが、韻律の規定を無視したものを指します(同書)。

☆「春峯(峰)」は板倉の雅号です。漢詩集(刊本)は「峯」の活字を使用しています。経歴については下記の略年譜を参照して下さい。

☆平仄の記号は、「―」が平声(ひょうしょう)、「<」が仄声(そくせい)、「韻」は押韻です。《  》は模範率、(    )はフリガナ、※は筆者の注記です。漢詩の活字は新字体にしました。

☆今月は、板倉春峯の二つの獄中詩(1890年作七律、1915年作五律)を読み、板倉の人物像について考えてみましょう。

板倉春峯(いたくら・しゅんぽう)「獄裏晩春(ごくりばんしゅん)」
 1890(明治23)年4月(推定)

平仄と押韻(七言律詩・平起・上平五微)《48/56=85.7%》
窓中夜夢雄     ↓平仄の模範
<-<<<--     
--<<<-韻
戸外燈光一点

<<--<<-     
<<--<<韻
雲風淅淅
-<<--<<     
<<---<<
花委地雨霏
<-<<<--     
--<<<-韻
鵑悲叫催愁去
<-<<--<     
--<<--<
旅雁哀鳴告別

<<--<<-     
<<--<<韻
従籠羑里
-<<--<<     
<<---<<
三春
景総皆
---<<--     
--<<<-韻
(『春峯詩稿』1934年)
赤字は平仄の不規則(許容範囲)。青字は押韻。

訓読
獄窓(ごくそう)の中夜(ちゅうや)雄飛(ゆうひ)を夢(ゆめ)む
戸外(こがい)の燈光(とうこう)一点(いってん)微(かすか)なり
残月(ざんげつ)入雲(くも)に入(い)り風(かぜ)淅淅(せきせき)たり
落花(らっか)地(ち)に委(お)ち雨(あめ)霏霏(ひひ)たり
杜鵑(とけん)の悲叫(ひきょう)愁去(しゅうきょ)を催(うなが)す
旅雁(りょがん)の哀鳴(あいめい)告別(こくべつ)して帰(かえ)る
煙霧(えんむ)一(いつ)に従(したが)い羑里(ゆうり)に籠(こ)もり
三春(さんしゅん)の光景(こうけい)総(すべ)て皆(みな)非(ひ)なり

※訓読の先例が無いので筆者の責任でおこないました。

注釈
 1890(明治23)年2月、板倉春峯は暴漢に襲われ過剰防衛の容疑で八日市場監獄に勾引されました(井桁三郎『春峰板倉中小伝』1983年)。第1句の「中夜(ちゅうや)」は夜半のことで、第2句の「燈光(とうこう)」は監獄外の灯火です。「一点微」は「一つ微(ひそ)かに点(とも)る」とも訓読できます。
 第3句と第4句は対句で、「残月(ざんげつ)」と「落花(らっか)」、「淅淅(せきせき)」と「霏霏(ひひ)」が対応しています。九十九里浜一帯の風景描写であると思います。
 第5句と第6句も対句で、「杜鵑(とけん)」と「旅雁(りょがん)」が対比されています。杜鵑(ほととぎす)は夏鳥で、雁(かり)は冬鳥です。
 第7句の「羑里(ゆうり)」は獄舎を意味します。「一(いつ)に」はもっぱらという用例が有ります。春峯が一首の中に同一文字を2回使用するのは珍しいですが、禁じ手では有りません。
 第8句の「三春(さんしゅん)」は、過剰防衛の容疑で勾留された2月(旧暦孟春)、投獄中の3月(仲春)、4月(季春)を指しています。「非(ひ)なり」という詩語に、板倉の憤慨の念が読み取れます。「非(あら)ず」と訓読すべきかもしれませんが。
 他の「獄中作(七絶)」には、「疎狂(そきょう)如許(いくばく)」という詩句や、「被害(ひがい)返(かえ)って加害(かがい)の人(ひと)」という詩句が有ります。「疎狂(そきょう)」は板倉自身の自画像と思われます。筆者愛用の電子辞書に、「疎狂」はそそっかしくひどく常識にはずれていることと説明されています。
 結局、正当防衛が認められ無罪になったようで、出獄したのは6月10日でした(前掲書)。『春峰板倉中小伝』は、獄中から立候補したように記述していますが、1889(明治22)年の「衆議院議員選挙法」に立候補制の規定は有りません(二井関成『現代地方自治全集9・選挙制度の沿革』ぎょうせい1978年)。
 獄中で選挙運動を準備し、1890年7月1日の第1回衆議院総選挙(小選挙区制、山辺郡・武射郡)で初当選を果たしたのです。対立候補の桜井静(さくらい・しずか)や斎藤源太郎に圧勝しました(『千葉県議会史』第2巻1969年)。

板倉春峯(いたくら・しゅんぽう)「獄中口占(ごくちゅうこうせん)」
 1915(大正4)年秋

平仄と押韻(五言律詩・平起・下平七陽)《35/40=87.5%》
途多失脚       ↓平仄の模範
<--<<       
---<<
自顧笑疎

<<<--       
<<<-韻
室暗
陰早
<<<-<       
<<--<
身間

---<-       
--<<韻
夢回雲閣上
---<<       
---<<
到露欧
-<<--       
<<<-韻
事無由聴
-<--<       
<<--<
沈思転断

--<<-       
--<<韻
(『春峯詩稿』1934年)
赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(七陽)。

訓読
世途(せいと)失脚(しっきゃく)多(おお)し
自(みずか)ら顧(かえり)みて疎狂(そきょう)を笑(わら)う
室暗(しつあん)夕陰(ゆうかげ)早(はや)し
身間(しんかん)秋夜(しゅうや)長(なが)し
夢(ゆめ)は回(めぐ)る雲閣(うんかく)の上(うえ)
憂(うれい)は到(いた)る露欧(ろおう)の彊(さかい)
時事(じじ)聴(き)くに由(よし)無(な)く
沈思(ちんし)すれば転(うたた)断腸(だんちょう)

※訓読の先例が有りませんので筆者(館長)の責任でおこないました。

注釈
 第1句の「世途(せいと)」は、「渡世(とせい)」と同義です。板倉は1915(大正4)年に選挙違反で逮捕され、瀆職罪(とくしょくざい)で有罪となり衆議院議員を失職しました(下記年譜参照)。自ら「失脚」と表現せざるを得なかったのでしょう。
 第2句の「疎狂(そきょう)」は著しく常識に外れていることを意味し、1890(明治23)年の獄中詩でも使用された詩句です(前回は冤罪)。
 第3句の「夕陰(ゆうかげ)」は夕方の微かな光で、「夕陽(せきよう)」と同義です。人生の「夕陰」ということでしょうか(満59歳)。第4句の「身間(しんかん)」は「身辺(しんぺん)」と同義です。第3句と第4句は対句で「夕陰早」と「秋夜長」が対応しています。
 第5句と第6句も対句で、「夢回」と「憂到」が対応し、「雲閣」と「露欧」が対応しています。「露欧(ろおう)の彊(さかい)」はヨーロッパにおける第1次世界大戦勃発という危機を踏まえた詩句と思われます。板倉は1910(明治43)年にヨーロッパ旅行を経験しています(上掲写真参照)。
 第8句の「沈思(ちんし)すれば転(うたた)断腸(だんちょう)」という詩句には、板倉の無念の思いが込められています。刑場に散った若い民権家(加波山事件等)を法廷で弁護して来た人物であるだけに、暗く沈痛に響いて来ます。
 五言律詩40文字中の35文字が平仄の規定通りです。平仄の模範率は35/40=85.7%で、五言律詩としては標準的な数字です。平仄の逸脱は第1句の「世」、第3句の「夕」、第4句の「秋」、第6句の「憂」、第7句の「時」の5字で、板倉にしては少し多いような気がします(許容範囲)。
 板倉春峯は晩年まで漢詩を作り続け、1938(昭和13)年3月5日に他界しました(満82歳)。戦前の『大正五百家絶句』(1927年)には、板倉の「曝背」、「緑陰読書」、「房州館山」の三首が輯録され、戦後の『だれにもできる漢詩の作り方・詩語完備』(漢詩書刊行会1963)年には「緑陰読書(七絶)」が模範作品として採録されています。

☆筆者は若い頃に茂原市の板倉順(春峯の長男)氏宅を訪問し、御夫妻に大変お世話になりました。40年以上も経過してから『春峯詩稿』について書くことになるとは思ってもみませんでした。

(2019年3月)


《掲示板》

◎4月の行事
4月 7日(日):地域行事
4月10日(水):免許証講習(ゴールド)
4月14日(日):講演(館長出張)
4月17日(水):国際交流
4月20日(土):味噌天地返し①
4月21日(日):地域行事
4月25日(木):健康診断
4月29日(日):予約客様(県外)

◎民権林園
☆収穫:三つ葉(平作)、タラの芽(平作)、芹(平作)、髙菜(平作)、筍(平作)、蕗(平作)
☆作業:馬鈴薯土寄せ、春菊播種、枝豆播種、玉葱草取り、ニンニク草取り、タケノコ掘り
☆花々:岩躑躅(薄紫)、八重桜(桃)、サンシュユ(黄)、辛夷(白)、プラム(白)、蒲公英(黄)、チューリップ(紅・黄色・白)、空豆の花(白・紫)、グリーンピースの花(白)
☆災害:マニラ記録的水不足、東日本季節外れの大雪

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(4月)
□『忘らえぬかも第5号・10周年記念号』(大網白里市郷土史研究会2008年4月1日)
□『忘らえぬかも第8号』(大網白里市郷土史研究会2014年4月1日)
□『忘らえぬかも第10号・20周年記念号』(大網白里市郷土史研究会2018年4月1日)
□雑紙『ちば・教育と文化№92』(千葉県教育文化研究センター2019年1月31日)
□会報『秩父№188』(秩父事件研究顕彰協議会2019年1月)
□山武市教育委員会編『北田定男家文書調査報告書(2)史料編』(山武市教育委員会2019年2月26日)
□雑誌『日本史の研究264』(山川出版2019年3月)
□会報『秩父№189』(秩父事件研究顕彰協議会2019年3月)
□企画展チラシ「没後100年板垣退助の志」(高知市立自由民権記念館、2019年4月27日~6月30日)
□企画展チラシ「森洋子の空想化石博物館」(城西国際大学水田美術館、2019年5月14日~6月22日)



《民権館歳時記》

☆『春峯詩稿(しゅんぽうしこう)』は合計361首の漢詩(七言絶句、七言律詩、七言古詩、五言絶句、五言律詩、五言古詩等)を収載しています。目次には337首と記載されていますが、総計すると361首になります。

☆平仄の記号は、「-」が平声(ひょうしょう)、「<」が仄声(そくせい)、「韻」は押韻です。《  》は模範率、(    )はフリガナ、※は筆者の注記です。漢詩の活字は新字体にしました。

☆今月は、板倉春峯の代表的な作品を鑑賞しましょう。

板倉春峯(いたくら・しゅんぽう)「緑陰読書(りょくいんどくしょ)」
 1923(大正12、癸亥)年5月

七言絶句(平起、上平六魚)《25/28=89.3%》
来遺世世遺       ↓平仄の模範
<-<<<--       
--<<<-韻    
自笑功名念已

<<--<<-       
<<--<<韻
一榻清風眠始覚
<<---<<       
<<---<<
処読仙
<--<<--       
--<<<-韻
(『春峯詩稿』1934年)
は平声、は仄声、は押韻。
赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(六魚)。

訓読
・老来(ろうらい)世(よ)に遺(のこ)り、世(よ)は予(よ)を遺(わす)る
・自(みずか)ら笑(わら)う功名(こうみょう)、念(ねん)已(すで)に虚(むな)しきを
・一榻(いっとう)清風(せいふう)、眠(ねむ)り始(はじ)めては覚(さ)め
・緑陰(りょくいん)深処(しんしょ)、仙書(せんしょ)を読(よ)む

※訓読は『だれにもできる漢詩の作り方』(1990年)を参照しました。

注釈
 平起(ひょうおこり)の七言絶句です。「世」と「遺」の漢字が2回使用されており、板倉の漢詩としては変則的な作品ですが、『大正五百家絶句』(1927年)に採録された老年期の秀作です。
 28字中25字が平仄の規定通りで、模範率は89.3%になります。押韻は第1句の「予(-)」、第2句の「虚(-)」、第4句の「書(-)」で、すべて上平(じょうひょう)の六魚(ろくぎょ)に属します。
 起句の「遺世」を「世(よ)に遺(のこ)り」と訓読してみました。「世(よ)を遺(わす)れ」と訓読すべきかもしれません。「世(よ)」は世間で、「予(よ)」は板倉です。
 承句の「自笑功名」は選挙違反で衆議院議員を失職した体験を指しています。「民権」と「金権」はたった一字違いです。板倉のように有能な弁護士政治家でも克服できなかったのです。「念」は心中の思いです。
 転句の「榻(とう)」は長椅子です。「覚(さ)め」は「醒(さ)め」と同義です。
 結句の「仙書(せんしょ)」は、同時期に作られた作品から類推すると、屈原(くつげん)の作品を収めた『楚辞』等を指すと思われます。

(2019年4月)


《掲示板》

◎5月の行事
5月 5日(日):予約客様
5月 7日(火):薫陶忌
5月10日(金):国際交流
5月12日(日):予約客様
5月20日(土):三省忌
5月24日(金):国際交流

◎民権林園
☆収穫:筍(豊作)、三つ葉(平作)、タラの芽(平作)、蕗(平作)、レタス(平作)
☆作業:馬鈴薯土寄せ、玉葱草取り、ニンニク草取り、里芋植付
☆花々:バラ(ピエールドロンサール・白桃)、(クィーンエリザベス・桃)、(シンデレラ・赤)、(サマースノウ・白)
☆災害:東日本に寒気団(雹・竜巻)、宮崎県に地震(震度5)、与那国島で50年に1度の大雨。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(5月)
□書籍『ガイドブック・五日市憲法草案』(日本機関紙出版センター、2015年3月31日)
□書籍『立憲政体改革の急務・島田邦二郎史料集成』(大阪民衆史研究会、2018年12月23日)
□紀要『自由民権32』(町田市立自由民権資料館、2019年3月31日)
□雑誌『幕末・維新期の町田 民権ブックス32』(町田市立自由民権資料館、2019年3月31日)
□紀要『自由民権記念館紀要№24』(高知市立自由民権記念館、2019年3月)
□企画展チラシ「没後100年板垣退助の志」(高知市立自由民権記念館、2019年4月27日~6月30日)
□企画展チラシ「森洋子の空想化石博物館」(城西国際大学水田美術館、2019年5月14日~6月22日)



《民権館歳時記》

☆今月は、千葉県安房郡(あわぐん)「主基村(すきむら)」の近代史と当館所蔵の資料について考えてみましょう。※展示室に「主基村」コーナーを設置しています。

☆「明治22年千葉県町村分合(ぶんごう)資料」には次のように記されています。

新町村名、由基村(ゆきむら)
 旧町村名、北小町(きたこまち)村、南小町(みなみこまち)村、成川(なりがわ)村、上小原(かみこばら)村、下小原(しもこばら)村、押切(おしきり)村(突入地)
(「明治22年千葉県町村分合資料・十八・長狭町村分合取調」1889年)

新村名選定の事由
 此(この)村々は多少優劣なきにあらずと雖(いえど)も、民情旧村名の内、其(その)一(ひとつ)を存するを欲せず、又之(これ)を参互(さんご)折衷せんとするも、五ヶ村の多き選択に便ならず、依(よっ)て此村々は明治四年大嘗会(だいじょうえ)の供米(きょうまい)を上(たてまつ)りたるの因故(いんこ)に依り本名を付す。
(「明治22年千葉県町村分合資料・十八・長狭町村分合取調」1889年)

☆「上(たてまつ)りたる」は「上(あ)げたる」の誤記かもしれません。引用資料の旧字体は新字体に、カタカナはひらがなにしました。(   )は引用者の補記、※は引用者の注記です。尚、分かり易くするために句読点を付しました(以下同じ)。

☆「わが住む村」は「主基村(すきむら)」という村名ではなく、「由基村(ゆきむら)」という村名で始まったのでした。施行は1889(明治22)年4月1日です(『千葉県町村合併史』葵書房1957年)。なぜ事実誤認をしたのでしょうか。これが本論の主題です。※山川菊栄の戦時下の名著に、『わが住む村』(岩波文庫1983年)があります。

☆地域近代史の「臆見(おっけん)」(勝手な推測に基づく意見、ラテン語では「ドクサ」)の出発点から考えてみましょう。

☆「発第二三九号」という文書を読みますと、新村名の「由基村」が簡単に決定されたのでは無いことが分かります。全文紹介しましょう。

発第二三九号
 北小町村外(ほか)四ヶ村惣代の者より、曽(かつ)て答申に及び候(そうろう)新村名なる由基(ゆき)は、称呼(しょうこ)に便ならざれば今一応協議之(の)上、更に申し開きすべき樣郡長の命(めい)之(これ)有(あり)候趣(おもむき)を以(もっ)て御通達相成(あいなり)候に付き、夫々(それぞれ)協議を遂げ候処(ところ)、少敷(すこしく)称呼に便ならざるも、一旦相定りたる義に付、曽て答申に及び候通り附名(ふめい)致し度(た)き旨申し出で候間(あいだ)、右に御上申之(これ)有り度く此段(このだん)御答え候也。
明治二十一年十月十九日
     北小町村外四ヶ村戸長 佐生正郎 印
 前原出張所
  郡書記 縣房儀殿
(「明治22年千葉県町村分合資料・十八・長狭町村分合取調」1889年)

☆文書の差出人の佐生正郎(さしょう・しょうろう)は北小町村外四ヶ村の連合戸長でした。その後、村長や千葉県会議員を歴任します。佐生は1915(大正4)年10月1日に「由基村」を「主基村」に改称した時も村長でした。26年後のことです(『村治概要』千葉県安房郡主基村1937年)。

☆上掲文書の提出先は、郡書記(ぐんしょき)の縣房儀(あがた・ふさよし)です。縣は士族出身で、鴨川町町長や千葉県会議員を歴任します(『千葉県議会史議員名鑑』1985年)。演説会等にも参加した士族民権家でした(拙著『房総の自由民権』1992年)。

☆北小町村惣代の石井善治は、後に由基村の村長や助役を務めます。南小町村惣代の田村七郎平、成川村惣代の川名弥太郎と須藤虎吉、下小原村惣代の小原国太郎は村会議員になります。当時、これらの人々は誰も「由基」という村名の誤りに気が付かなかったのです(『村治概要』千葉県安房郡主基村1937年)。

☆教部省の官員にも事実誤認をした人物はいたようです。『日本近代思想大系・宗教と国家』(岩波書店1988年)に採録された一例を紹介しましょう。

(明治四年五月)
 二十二日に国郡(くにこおり)卜定(ぼくじょう)の式あり。卜部(うらべ)は吉田良義、此(これ)備(つぶさ)に既に出仕ありしなり。鈴鹿氏等、其(その)卜術(ぼくじゅつ)に従事し、悠紀(ゆき)は安房国長狭郡、主基(すき)は甲斐国都留郡と定めらる。
(常世長胤著『神教組織物語』1885年、前掲書所載)

☆大著『明治天皇紀』は、悠紀と主基の卜定の方角が旧来とは異なっていたと記しています。地域農民が卜定を誤認した原因は、或いは方角が異例(東西が逆?)であったことに因るのかもしれません。当該箇所を引用しましょう。

是(こ)の日卜定(ぼくじょう)せる国郡(くにこおり)、悠紀は甲斐国巨摩郡(こまごおり)にして、主基は安房国長狭郡(ながさごおり)なり、尋(つ)いで上石田(かみいしだ)村山田松之丈所有地を悠紀斎田(ゆきさいでん)と定め、北小町(きたこまち)村前田小平太等五人の所有地を主基斎田(すきさいでん)と定む、抑々(そもそも)卜定に先だち悠紀・主基両国を予定するに方(あた)りては、概ね帝都以東の地を以て悠紀とし、帝都以西の地を以て主基とするを例とす、然(しか)るに今次甲斐国を悠紀とし、安房国を主基とせるは、其(そ)の方位を誤れるが如くなれども、是れ東西の別なかりし古例に拠れるなりと云う。
(『明治天皇紀・第二』吉川弘文館1969年)

☆1871(明治4)年の上石田村は現在甲府市で、北小町村は現在鴨川市です。北小町村の「前田小平太」という氏名は、地域の資料に見当たりませんので誤植かもしれません。

☆『明治天皇紀』は実証的で標準的な記述であると思いますが、「方位を誤れるが如く」と書かざるを得なかったようです。近世の慣例を無視した理由を「古例に拠れる」と記述するだけで、維新政権内部の意見対立には踏み込んでいません。

☆大著『岩倉公実記』も「古(いにしえ)より悠紀主基の両斎国(さいこく)は京都の東西に位するの国を選んで之に充(あ)つ」と記述するだけです(多田好問編『明治百年史叢書・岩倉公実記(中巻)』原書房1968年)。岩倉使節団一行は、大嘗祭の準備過程には関わっていますが、11月17日の大嘗会には全員欠席しています。この点を詳細に検討した論考を、筆者は読んだことが有りません。

☆主基村は第2次世界大戦後の1955(昭和30)年3月31日に隣村の吉尾村、大山村と合併して長狭町(ながさまち)になり、30年間続いた村名は消滅します(『町勢要覧・昭和30年合併版』千葉県安房郡長狭町1956年)。由基村は26年、次の主基村は30年、合計56年間の近代行政村名でした。

☆最近出版された写真集の『安房の昭和』(いき出版2017年)には、模範村(もはんそん)時代に建設された主基村農会の壮大な建物群(事務所、車庫、倉庫、養鶏場、直営醤油工場)の写真が掲載されています。他に主基村役場、主基小学校、主基中学校、村立病院等の写真も掲載されています。

☆「由基(ゆき)」とは何でしょうか、「主基(すき)」とは何でしょうか、当館所蔵資料から入門的な定義を紹介します。先ずは、明治初年に伊能頴則(いのう・ひでのり)が執筆した『大嘗祭儀通覧(だいじょうさいぎつうらん)』の簡潔な定義から考えてみましょう。※伊能は香取市出身の宮司。

大嘗祭(だいじょうさい、おおにえのまつり)由来
 悠紀(ゆき)は齋の義(ぎ)、主基(すき)は次(つぎ)なり。
(伊能頴則『大嘗祭儀通覧全』如蘭社事務所1913年)

☆この定義が最も簡潔です。「齋」は様々な読み方がありますが、「ゆ」と読むのが良いと思います。字義は清浄であること、神聖であることです。主基は次(つぎ)という意味で、第二番目と解釈します。

☆国文学者であり、民俗学者でもあった折口信夫(おりくち・しのぶ)の有名な「大嘗祭の本義」(1928年講演筆記)は、「悠紀」と「主基」について、「悠紀の
齋(ゆ)む・いむなどの意、は何かわからぬ」と述べています。更に「ゆきすきと、なぜ二つこしらえるのか、其(それ)もわからぬ」と述べています(『折口信夫全集第三巻』中央公論社1955年)。

☆筆者愛用の電子辞書(「精選版日本国語大辞典」小学館)には、「由基(ゆき)」と「主基(すき)」の初出が記されていますので、要約して紹介しましょう。

ゆき(悠紀、斎忌、由基)
 天皇の即位後初めて行なう大嘗祭に用いる新穀、酒料を献ずる国郡(くにこおり)のうち、第一の場所。初出は『日本書紀』の「天武(てんむ)五年九月」で、「斎忌(ゆき)は、則ち尾張(おわり)国」。
すき(主基、次)
 天皇の即位後初めて行なう大嘗祭に用いる新穀、酒料を献ずる国郡のうち、第二の場所。初出は『日本書紀』の「天武五年九月」で、「次(すき)は、丹波(たんば)国」。
(EX‐word「精選版日本国語大辞典」小学館)

☆初出は『日本書紀』(720年)です。この時、新穀を感謝する新嘗(にいなめ)の悠紀田(ゆきでん)は朝廷の在った飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)の東方、主基田(すきでん)は西方でした。※明治大嘗祭の安房国長狭(ながさ)郡は皇居の東方、甲斐国巨摩(こま)郡は西方で、逆です。

(この項続く)

(2019年5月)



《掲示板》

◎6月の行事
6月 1日(土):梅干し漬込(5キロ)
6月 6日(木):国際交流
6月 8日(土):予約客様
6月 9日(日):巨峰忌(安田勲顕彰忌)
6月13日(木):梅干し漬込(5キロ)
6月14日(金):国際交流
6月19日(水):創立記念日(7周年)
        :桜桃忌
6月20日(木):予約客様
6月30日(日):地域行事

◎民権林園
☆収穫:馬鈴薯(豊作)、玉葱(豊作)、大蒜(平作)
☆作業:里芋植付、梅干し
☆花々:バラ(ピエールドロンサール・白桃)、(クィーンエリザベス・桃)、(シンデレラ・赤)、(サマースノウ・白)、南瓜(黄)
☆災害:富士山が季節外れの積雪、新潟で震度6強の地震。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(6月)
□『町田市古文書目録第2集・村野常右衛門関係史料目録』町田市教育委員会、2019年2月15日
□企画展チラシ「没後100年板垣退助の志」(高知市立自由民権記念館、2019年4月27日~6月30日)
□企画展チラシ「森洋子の空想化石博物館」(城西国際大学水田美術館、2019年5月14日~6月22日)



《民権館歳時記》

☆6月は村名に関する新聞記事を読んで「悠紀」と「主基」の誤認について考えてみましょう。

☆どのような経過で、「由基村(ゆきむら)」という村名が誤りであることに気が付いたのでしょうか。旧蹟保存に関する補助金申請書類を千葉県知事に提出する過程で、斎田(さいでん)が「主基田(すきでん)」であったことが判明したのです。

☆先ず、1915(大正4)年の『東京朝日新聞』を読んでみましょう。(   )は引用者の補記、※は引用者の注記、旧字体を新字体に、カタカナをひらがなにし、分かり易くするために句読点を付記しました。

主基(すき)斎田(さいでん)の真蹟(しんせき)、安房郡にて発見
 安房郡由基村(ゆきむら)に於(おい)て、畏(おそ)れ多くも明治天皇陛下が明治四年東京に於て御即位を行わせられし砌(みぎり)、御指定を辱(かたじけの)うせる主基斎田ある事発見され、政府に於ても調査する処(ところ)あり。
 既(すで)に卜定(ぼくじょう)せられたるにより、同村にては今回其(その)真蹟保護の申請を為(な)すべく郡役所(ぐんやくしょ)に書類を添付せり。
(『東京朝日新聞』1915年1月15日)

☆由基村の村長から千葉県知事に提出された文書は保存され、現在は公開されていますのでついでに読んでみましょう。(    )は引用者の補記、句読点は引用者、行政文書なので原文通りにカタカナで引用します。

旧蹟保存費下附申請
 本村(ほんそん)北小町(きたこまち)字(あざ)仲の坪(なかのつぼ)千八百五十三番ノ地ハ、明治天皇大嘗祭主基御斎田(ごさいでん)ニ御卜定(ごぼくじょう)相成(あいな)リ、県下ニ於(お)ケル尤(もっと)モ著名ナル神蹟(しんせき)ナリ。
 然(しか)ルニ于今(うこん)其(その)保存ノ方法ナク、己人(こじん)所有ノ耕作地タリ、之レ甚ダ遺憾トスル所ナリ。
 依(よっ)テ本村ハ此(こ)ノ地ニ別紙図面設計書ノ通(とおり)公園ヲ設置シ、併(あわせ)テ碑ヲ建立シ、此ノ御神蹟(ごしんせき)ヲ保存シ、永ク御聖徳(ごせいとく)ヲ紀念(きねん)シ奉(たてまつ)リ度(たく)候(そうろう)条(じょう)、明治四十四年四月本県令第三十四号名称旧蹟保存規定ニヨリ、保存費御下附(ごかふ)被成下度(なしくだされたく)、調書相添(あいそえ)及申請(しんせいにおよび)候(そうろう)也。
 大正四年一月十一日                                    千葉県安房郡由基村長 佐生正郎 印
 千葉県知事 佐柳藤太殿
(千葉県文書館所蔵文書)(図録『皇室がふれた千葉×千葉がふれた皇室』所載)

☆「由基」という村名と「主基」という斎田名が同居している文書です。村長は1889(明治22)年の町村制施行期の連合戸長と同一人物なので、自ら誤りを訂正し、けじめを付けたと言えるでしょう。

☆以下の記事は、その後の村名改称の時のものです。

安房郡由基村(ゆきむら)の神蹟(しんせき)
 安房郡由基村北小町は元北小町村と称し、明治四年先帝陛下の御大典を行わせらるゝに方(あた)り、主基斎田に卜定(ぼくじょう)せられたる地なり。
 然(しか)るを明治二十二年町村制施行の時、元北小町村(きたこまちむら)、南小町村(みなみこまちむら)、成川村(なりがわむら)、上小原村(かみこばらむら)、下小原村(しもこばらむら)を合せ一村と為し、之(これ)が新村名を附するに当たり元北小町村に卜定せられたる由基斎田(さいでん)なりと誤信し、其名(そのな)に因(ちなみ)し由基村と称する事と為したり。
 其後(そのご)御斎田(ごさいでん)は主基にして、由基にあらざりし事を発見し、誤信に依り村名を附したるを村民に於て遺憾を唱うる者少からず。
 仍(よっ)て其(その)誤りを訂し、主基村と改称し此の名誉ある村名を尊重せしめ、併(あわ)せて御神蹟を長(とこし)えに尊敬せしめむとし、今回同村にては村名改称の件許可申請に付(つき)村会の決議を経て此程(このほど)内務省に向って其手続に及べり。
(『東京朝日新聞』1915年8月25日)

☆記事は「誤信」と書いています。この記事を読みますと地域の先祖が二重の誤認をしてしまったことが分かります。一つは、1871(明治4)年の大嘗祭の「主基田」を、「悠紀田」と勘違いしたことです。

☆山梨県側の資料は最初から「悠紀田」で一貫しています(『山梨県史』)。千葉県側は斎田名を正確に把握できなかったようです(『千葉県町村分合資料』)。

☆もう一つの誤認は、明治政府が使用した「悠紀(ゆき)」という表記を、「由基(ゆき)」と誤記してしまったことです。

☆以下は村名の改称が内務省に認められたという記事です。

由基村の改称、主基村の名に帰る
 安房郡由基村(ゆきむら)は主基村(すきむら)と改称することに決し、其(その)筋(すじ)に申請中なりし処(ところ)、三十日附(づけ)を以(もっ)て許可の指令ありたり。
 同村は明治天皇即位の大嘗祭(だいじょうさい)に主基斎田(すきさいでん)となりしが、明治二十二年町村制施行の時誤って由基となせしこと調査の結果判明せし(に)より、今回改称せし次第なりと。
(『東京日日新聞』1915年8月31日)

☆この記事にも「誤って由基となせしこと調査の結果判明」と記載されています。

☆「由基」という漢字表記について少し考えてみましょう。日本古代の正史である『日本書紀』(720年成立)は、「斎忌(ゆき)」「次(すき」と漢字表記しています。『続日本紀(しょくにほんぎ)』(797年成立)は「由機(ゆき)」「須機・須岐・須伎(すき)」と漢字表記しています。『日本書紀』と『続日本紀』のどこにも「由基」という表記は無いのです。田中初夫編著『践祚(せんそ)大嘗祭』には一覧表が掲載されています(当館蔵書)。

☆前掲『践祚大嘗祭』に拠ると、「悠紀(ゆき)」という漢字表記の初出は『日本後紀(にほんこうき)』(840年成立)です。嵯峨天皇の810(弘仁元)年11月20日に、「悠紀主基両国献翫好雑物」(悠紀、主基両国が様々な好い品物を献上)と記載されています(『日本後紀』残存巻)。

☆927(延長5)年に完成した『延喜式(えんぎしき)』の「神祇(じんぎ)」では、「悠紀(ゆき)」「主基(すき)」と漢字表記しています。『延喜式』の「祝詞(のとこと)」に「由貴」という珍しい表記もありますが、「由基」では有りません(『交替式・弘仁式・延喜式前篇』)。

☆中世では、南北朝時代に成立した歴史物語の『増鏡(ますかがみ)』に、後嵯峨天皇大嘗会の「悠紀方の御屏風」と「主基方風俗の歌」が記述されています(『増鏡』第四「三神山」)。室町時代の『唯一神道名法要集(ゆいいつしんとうみょうぼうようしゅう)』には、「悠紀殿」(天神の斎場)と「主基殿」(地祇の斎場)の記述が有ります。

☆近世では、徳川家康、秀忠、家光、家綱4代の侍講であった京都出身の林羅山(はやし・らざん)が、「悠紀」「主基」と漢字表記しています(『神道伝授』)。江戸時代の代表的な国学者の本居宣長(もとおり・のりなが)は主に「悠紀」「主基」と表記しています(『古事記伝』『玉勝間』)。幕末の水戸学の指導者であった会沢安(あいざわ・やすし)も「悠紀」「主基」という漢字を使用しています(『新論』)。

近代では、明治の大嘗祭の指針であったと云われる伊能頴則(いのう・ひでのり)著『大嘗祭儀通覧』が「悠紀国」、「悠紀田」と記述しています。維新政権の1871(明治4)年の『太政官日誌』は、「悠紀主基国郡」と記載しています。明治中期に編纂された膨大な百科事典の『古事類苑』(神祇部)に、「由基」という漢字表記は皆無です。不思議です。

☆千葉県の町村制施行の関係者は、どこから「由基」という漢字表記を引用したのか現在でも不明です。常識では考えられない臆見(ドクサ)に因る誤認をしたことになります。なぜ、明治政府が使用した「悠紀(ゆき)」(『太政官日誌』、『明治四年大嘗會式』)という漢字表記にしなかったのか。なぜ「悠紀村(ゆきむら)」と命名しなかったのか。

☆江戸時代前期に編纂された林羅山・林鵞峰編著『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』の「四條天皇・嘉禎(かてい)元年」が「由基(ゆき)」という漢字表記を記載した数少ない例です。しかし編修者による誤記の可能性を否定できません。

☆『本朝通鑑』の「平城天皇・大同二年」では、『日本後紀』の記述「伊勢国為由貴備前国為須貴」(伊勢の国を由貴とし、備前の国を須貴とした)がそのまま引用されています。『本朝通鑑』の「嵯峨天皇・弘仁(こうにん)元年」では、『日本後紀』の「悠紀主基両国献翫好雑物」(悠紀、主基両国が様々な好い品物を献上)がそのまま引用されて、「悠紀」「主基」の漢字表記になっています。「ゆき」「すき」の表記が不統一であったことが分かります。

☆明治中期、地域の先祖に、不統一な『本朝通鑑』を精読参照した人物が居たかどうか。

☆鴨川市内の隣村の田原村(たばらむら)と吉尾村(よしおむら)は、古代以来の郷名(田原郷、吉保郷、横尾郷)に依拠して新村名を答申しています。由基村も斎田名以外の新村名が可能であったと筆者は考えます。皇室に関連した町村制の新村名は、千葉県内にほとんど有りません。わずかに、市原郡に誕生した「明治村」のみです(『千葉県町村合併史』)。

☆村名改称の経過について、町村制から約50年後の『村治概要』は、自己批判的に次のように「怱卒(そうそつ)」であったと述べています。慎重に「古典を調査」すべきであったという反省も記しています。

当時怱卒(そうそつ)ニ出(いで)テ古典ヲ調査スルノ暇(いとま)ナク由基(ゆき)ト称セシガ、其後(そのご)由基ニ非(あ)ラズ主基(すき)ナル事ヲ確メタルヲ以(もっ)テ、大正四年大正天皇ノ御大典(ごたいてん)ヲ行(おこ)ナハセラルヽニ当リ、此(こ)ノ光栄アル神蹟(しんせき)ノ煙滅(えんめつ)ヲ惜(おし)ミ、多額ノ費ヲ投ジ佳木(かぼく)奇石ヲ列(つら)ネ公園ヲ設置シ、枢密(すうみつ)顧問官男爵細川潤次郎(ほそかわ・じゅんじろう)氏ノ毫揮(ごうき)ヲ乞(こ)ヒ、明治天皇大嘗祭主基(すき)乃(の)地ナル一大碑石ヲ建設シ、以テ主基村ト改称シタリ(後略)。
『村治概要』千葉県安房郡主基村1937年)

1937(昭和12)年の村長は、全国屈指の模範村(内務大臣表彰)であった主基村を牽引(けんいん)した川名傳(かわな・でん)でした。「怱卒(そうそつ)」とは慌てること、軽はずみなことを意味し、「煙滅(えんめつ)」は消えて無くなることです。「佳木(かぼく)」は良質の木を意味し、「毫揮(ごうき)」は「揮毫(きごう)」と同義であると思われます。

☆主基村は1931(昭和6)年4月29日に千葉県知事から表彰され、1935(昭和10)年1月11日に農林大臣から表彰されました。同年11月3日に内務大臣からも表彰されています。ここでは、農林大臣と内務大臣の表彰状を紹介しておきましょう。

農林大臣表彰状
褒状(ほうじょう)
 安房郡主基村
右ハ千葉県主催経済更生(けいざいこうせい)模範経
営(もはんけいえい)共進会(きょうしんかい)ニ於(お)ケル審査ノ成績優
等ナルヲ認メ茲(ここ)ニ之(これ)ヲ授与ス
昭和十年1月11日
 農林大臣従三位・勲二等 山崎達之輔
(『村治概要』千葉県安房郡主基村1937年

内務大臣表彰状
 千葉県安房郡主基村
協働輯睦(しゅうぼく)相(あい)率イテ克(よ)ク公共ノ事
ニ竭(つく)シ整理(せいり)経営(けいえい)共ニ見ルベキモ
ノ尠(すくな)カラズ今後尚(なお)一層ノ奮励(ふんれい)ヲ
以(もっ)テ互ニ相(あい)戮力(りくりょく)シ益々其(その)実績ヲ挙ゲンコトヲ望ム
昭和十年11月3日
 内務大臣正三位・勲二等 後藤文男
(『村治概要』千葉県安房郡主基村1937年)

☆「輯睦(しゅうぼく)」は、人とむつまじくすることです。「竭(つく)シ」は「尽(つく)シ」と同義です。「戮力(りくりょく)」は力を合わせることで、『書経』の「戮力協心(りくりょくきょうしん)」が初出です。

☆「満州事変(まんしゅうじへん)」後の表彰状ですから、独特な用語が頻出します。筆者愛用の電子辞書に依拠して簡潔に説明をしておきました。当館所蔵資料(寄贈資料)には実際に「主基村役場」の角印が押された「赤紙(あかがみ)」(国民兵召集令状)も残っています。

☆高校日本史教科書は、昭和前期における農村の救済運動を「農山漁村経済更生運動」と記述しています。1932(昭和7)年、斎藤実(さいとう・まこと)内閣の時に内務省、農林省が農村の自力更生(じりきこうせい)と隣保共助(りんぽきょうじょ)を提唱し、「産業組合」を拡大して農民の結束を図った官製の運動です。斎藤は1936(昭和11)年の「二・二六事件」の時には内大臣でしたが、皇道派(こうどうは)青年将校に襲撃されて他界しました。

(2019年6月)



《掲示板》

◎7月の行事
7月 7日(日):「民権館通信」発行(第13号)
7月11日(木):予約客様
7月12日(金):国際交流
7月13日(土):迎え火(地域民俗行事)
7月15日(月):送り火(地域民俗行事)
7月26日(金):国際交流
7月27日(土):資料調査
7月28日(日):梅干し天日干し(三日三晩)
7月31日(水):企画展準備

◎民権林園
☆収穫:馬鈴薯(豊作)、青紫蘇(不作)
☆作業:甘藷草取り、梅干天日干、大豆植付
☆花々:泰山木(白)、バラ(クィーンエリザベス・桃)(シンデレラ・赤)、南瓜(黄)、木槿(白・紫)、夾竹桃(赤)。
☆災害:九州南部、四国で大雨洪水(降雨1000㎜超)、関東で記録的な日照不足、中国遼寧省で巨大竜巻被害、米国カリフォルニア州で大地震による停電と火災、ギリシャで大雨洪水、米国ルイジアナ州で巨大水上竜巻発生。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(7月)
□会報『秩父№190』秩父事件研究顕彰協議会2019年5月
□会報『福島自由民権大学通信№26』福島自由民権大学事務局2019年6月30日
□『日本の古本屋・永森書店目録第34号』2019年6月
□高知市立自由民権記念館編『要覧・2018年度』高知市教育委員会2019年6月
□チラシ「町田の近代と青年」町田市立自由民権資料館2019年7月13日~9月29日



《民権館歳時記》

☆7月は、戦前の主基(すき)村立主基尋常(じんじょう)高等小学校の校歌を紹介し、明治天皇の大嘗祭が地域に及ぼした影響の深さについて考えてみましょう。

校歌(主基尋常高等小学校)
一、山の城址の老松(おいまつ)は
  昔を語る縁(えにし)にて
  仰げば高き節(みさお)あり
  眺(ながめ)も飽かず四つの時

二、白絹瀧(しらきぬたき)の清き水
  末引く小田(おだ)は実(みの)りよく
  小町嶺(おまちね)高(たか)く生(お)うる樹に
  家毎(ごと)薪(まき)は余あり

三、
明治の帝(みかど)大嘗会(だいじょうえ)
  行いましゝ御時(おんとき)に
  
主基(すき)のにし選ばれて
  奉(たてまつ)りけり
たなつもの

四、例(たぐい)稀なるこの村の
  この学び舎(や)に集いよる
  我等に高き希望あり
  つとめて摘(つ)まん教え草

五、知徳の(を?)磨(みが)き体(たい)を練(ね)り
  誠の国民(たみ)と生(お)い立ちて
  我が日(ひ)の本(もと)の名をもあげ
  君と親とに尽(つく)さまし
(アルバム『卒業記念』主基尋常小学校1931年)
※引用資料の旧字体は新字体に、旧仮名遣いは新仮名遣いにしました。(   )と赤字は引用者の補記です。

☆典拠である1931(昭和6)年の「アルバム」は、筆者の父(1942年ミッドウェー海戦生存者)の遺品です。亡父の海軍入隊は1937(昭和12)年発行の『村治概要』(千葉県安房郡主基村)に記載されています。

☆作詞者と作曲者の氏名は、主基小学校の沿革誌に記載されていませんので不明です。制定年代は大正時代ではないかと推定しています。1889(明治22)年4月1日に成立した由基尋常高等小学校から主基尋常高等小学校への校名改称は、1915(大正4)年10月1日でした(同校沿革誌)。前身の長狭郡北小町小学校の創立は、学制発布後の1874(明治7)年9月15日です。

☆大嘗祭に因んだ校歌は、関東では他に例が無いでしょう。両親や叔父叔母が歌った戦前の校歌の3番に「奉(たてまつ)りけり、たなつもの」という詩句が有ります。「たなつもの」とは、いったいどういう意味でしょうか。

☆平安時代の『延喜式』(927年完成)の「践祚(せんそ)大嘗祭」(神祇七)には、「たなつもの(水田種子、穀)」という用語の記載は無く、「ためつもの(多明物、多米都物)」という語彙が使用されています。

☆「たなつもの」という語彙の初出について、古代における『日本書紀』(720年成立)の記述から検証しましょう。

日本書紀、神代上、第五段(黄泉の国)
原文:以稲為水田種子
訓み下し文:稲を以ては水田種子(たなつもの)とす。
現代語訳:稲(いね)を水田(すいでん)の種(たね)とした。
(『日本書紀①』岩波文庫1994年、『全現代語訳・日本書紀上』講談社文庫1988年)

日本書紀、神代上、第七段(天の岩屋)
原文:又秋穀已成
訓み下し文:又、秋の穀(たなつもの)已(すで)に成りぬるときに、
現代語訳:また、秋(あき)は穀物(こくもつ)が実(みの)っているときに、
(『日本書紀①』岩波文庫1994年、『全現代語訳・日本書紀上』講談社文庫1988年)

☆『日本書紀』に初出の「たなつもの」は、「水田種子」と「秋の穀」の異なった意味で使用されています。漢字表記も異なっています。
稲の実には春は種子で、秋は食物という二つの側面が有ります。

☆『延喜式』には、合計28篇(巻第八・巻第十六)の祝詞(のりと)が収載されています。そのうち、「たなつもの」の用語が記載されている祝詞は、第4番目の「龍田(たつた)の風(かぜ)の神の祭」と第19番目の「六月(みなづき)の月次(つきなみ)の祭」だけです。次のような文言です。

「龍田の風の神の祭」
書き下し文:赤丹(あかに)のほに聞(きこ)しめす、五(いつくさ)の穀物(たなつもの)
書き下し文:天(あめ)の下の公民(おおみたから)の作(つく)り作る物は、五(いつくさ)の穀(たなつもの)
(『日本古典文学大系1・古事記 祝詞』岩波書店1958年、『新訂増補国史大系・交代式 弘仁式 延喜式』吉川弘文館1989年)

「六月の月次の祭」
書き下し文:長く平(たい)らけく作(つく)り食(た)ぶる、五(いつくさ)の穀(たなつもの)
(『日本古典文学大系1・古事記 祝詞』岩波書店1958年、『新訂増補国史大系・交代式 弘仁式 延喜式』吉川弘文館1989年)

☆三箇所とも「穀物」と「水田種子」の両様の意味で記述されていると思います。「龍田の風の神の祭」には「和稲(にきしね)」、「荒稲(あらしね)」という用語も記載されており、史料的に貴重な祝詞であると考えます。

☆「和稲(にきしね」の意味は「籾殻(もみがら)を取り去った米」で、「荒稲(あらしね」の意味は「籾(もみ)のままの米」です。「和稲」は食べて消化(消費)する「ためつもの(味物、多明物、多米都物)」(『古事記』、『延喜式』)であり、「荒稲」は播(ま)いて生育(生産)するための「たなつもの(水田種子)」(『日本書紀』)であると言えるでしょう。

☆『日本書紀』の「たなつもの(水田種子、穀)」という用語は、『古事記』、『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』には見当たりません。江戸時代の本居宣長は、「たなつもの」という語彙を用いた有名な短歌を残しています。

『玉鉾百首(たまぼこひゃくしゅ)』
・多那都物(たなつもの)百之木草母(もものきくさも)天照須(あまてらす)日之大神之(ひのおおかみの)米具美延弖許曾(めぐみえてこそ)
(『直毘霊・玉鉾百首』岩波文庫1936年)

☆同書の注釈は「多那都物(たなつもの)」を「稲穀(とうこく)」と記述しています。「百之(ももの)」は「諸々の」、「米具美(めぐみ)」は「恵(めぐみ)」、「延弖(えて)」は「得(え)て」と説明しています。主基尋常高等小学校校歌の作詞者が「たなつもの」のヒントを本居宣長から得たかどうかは不明ですが。

☆『古事記』には「味物(ためつもの)」の他に「稲種(いなだね)」という用語が有り、『日本書紀』にも「稲種(いなたね)」という用語が有ります。本居宣長は『古事記伝』において、「成種」を「たねとなしたまいき」と訓読しています(『古事記伝(三)』岩波文庫)。

☆大嘗祭における「稲実(いなのみ)」、「籾種(もみだね)」、「種実(しゅじつ)」の重要性を指摘したのは、第2次大戦後の柳田国男でした。(    )は引用者の補記。

稲実公(いなのみのきみ)の任務
・古くこの田(伊勢神宮斎田)の籾種(もみだね)はいかに管理していたろうか。それが判(わか)ると参考になるのだが、今はまだそこまでは手が及ばない。
・稲実(いなのみ)という語は、飯料(はんりょう)や造酒料(ぞうしゅりょう)の外では無かったろうか。
・翌年の種実(しゅじつ)を拝受して(京都)、郷里に還ってくる任務が、最初にはまだ課せられていた名残ではなかったろうか。
(『定本柳田國男集・第1巻』筑摩書房1963年、『海上の道』岩波文庫1978年)

☆この論考は実証性に欠けているような気がしますが、「民俗学」という学問を体系化した柳田国男の示唆に富む見解です。折口信夫の場合は「大嘗祭の本義」(1928年講演録)において、「稲穂(いなほ)」と「御飯(ごはん)」 という用語を使用しています。「稲実」、「籾種」、「種実」に対して、折口の関心は希薄であったように思います。

☆『万葉集』には「湯種(斎種)」(豊作を祈願し祭事を済ませた籾種)という独特な語彙を使用した短歌が二首(1110、3603)収録されています。何故か、柳田国男は『海上の道』で言及していません。ここでは「巻第七」の一首を紹介しておきましょう。

『万葉集』1110 
原文:湯種蒔(ゆだねまく)荒木之小田矣(あらきのおだを)求跡(もとめむと)足結出所沾(あゆひいでぬれぬ)此水之湍尒(このかわのせに)

訓読:ゆ種(だね)蒔(ま)くあらきの小田(おだ)を求めむと足結(あゆ)ひ出(い)で濡(ぬ)れぬこの川(かわ)の湍(せ)に

口訳:斎(い)み清めた籾(もみ)を蒔(ま)く新墾(あらき)の田んぼを探しに、足結(あゆい)をして出かけてその足結(あゆい)を濡らしてしまった。この川の瀬で。
(中西進『万葉集(二)』講談社文庫1980年、伊藤博『万葉集(二)』角川文庫2009年)

☆今月はここまでにしましょう。以下に参考資料として、1915(大正4)年成立(改称)の千葉県安房郡「主基村立主基尋常高等学校」と同じ年に創立された「香川県立主基農業学校」の校歌を紹介しておきます。同年は大正天皇の大嘗祭が執行された年です。

香川県立主基農業学校校歌(1930年9月21日校歌制定)
(1番)
大御祭主基
負持て立てる
学舎
神と
との御恵の
露にぞ茂る
教草
書読む声も川音も
早く聳えし
の宮
孔聖の祠月澄みて
菅家の遺跡梅薫る
※作詞者は堀澤周安。
(『主基の丘百年』創立百周年記念誌2015年)

☆「大御祭(おおみまつり)」は「大嘗祭(だいじょうさい、おおにえのまつり)」のことです。「大御祭(大嘗祭)」、「主基」、「名」、「学舎」、「君」、「教草」「滝(瀧))」の七語が共通する詩語です。

☆香川県「綾歌郡立主基農林学校」は1915(大正4)年4月1日の開校です。県立へ移管され、1922年4月10日に「香川県立主基農業学校」と改称しました。戦後の学制改革によって、1948(昭和23)年4月1日に新制高校の「香川県立主基高等学校」になります(前掲『主基の丘百年』)。

(2019年7月)


《掲示板》

◎8月の行事
8月 1日(木):第6回企画展(9月30日まで)
8月 4日(日):予約客様
8月 9日(金):国際交流
8月15日(木):終戦記念日
8月23日(金):国際交流
8月25日(日):予約客様

◎民権林園
☆収穫:胡瓜(豊作)、ミニトマト(豊作)、オクラ(平作)、赤紫蘇(平作)
☆作業:梅干天日干、瓶詰め(完成)
☆花々:南瓜(黄)、木槿(白・紫)、夾竹桃(赤・白)、バラ(サマースノウ・白)
☆災害:インド・パキスタンで大雨洪水被害、浅間山が噴火し警戒レベル3、中国で大雨洪水、アマゾンで大規模森林火災

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(8月)
□『久留里郷(創刊号)』千葉県君津郡久留里郷友会1928年12月26日
□会報『秩父№191』秩父事件研究顕彰協議会2019年7月
□チラシ「町田の近代と青年」町田市立自由民権資料館2019年7月13日~9月29日
□チラシ「浮世絵でよむ、南総里見八犬伝」城西国際大学水田美術館2019年9月17日~10月12日



《民権館歳時記》

☆8月は、明治の大嘗祭の指針であった云われる伊能頴則(いのう・ひでのり)著『大嘗祭儀通覧(だいじょうさいぎつうらん)』(如蘭社1913年)について考えましょう。当館所蔵の和本です。伊能は香取市出身で香取神宮の宮司も務めました。

☆同書の全体構成は以下の通りです。(   )は引用者の補記で、目次の(一)~(九)には「稲実」と「御飯」に関する用語を書き抜いてみました。

『大嘗祭儀通覧』構成
短歌、宮内大臣源千秋(みなもとの・ちあき)
大嘗祭儀通覧序、大正二年十一月、文学博士井上賴囶(いのうえ・よりくに)
「大嘗祭日憶京師、会澤安(あいざわ・やすし)」、大正癸丑(みずのと・うし)十一月朔、後学邨岡良弼(むらおか・りょうすけ)
凡例
目次
(一)大嘗祭(おおにえのまつり)由来(ゆらい)
 用語:新穀、酒饌(しゅせん)、稲、飯(いい)、稲穂、米、粟、早稲(わせ)、爾倍須(にべす)
(二)国(くに)郡(こおり)卜定(ぼくじょう)大祓(おおはらい)奉幣(ほうへい)
 用語:酒饌
(三)御禊(みそぎ)河原(かわら)頓宮(とんぐう)行幸(みゆき)鹵簿(ろぼ)
 用語:造酒(みき)、散米、五穀(いつつのたなつもの)
(四)散斎(さんさい)致斎(ちさい)供忌火御飯(いむびのおんいいをきょうする)
 用語:御飯(おんいい)
(五)抜穂(ぬきほ)ノ供神物(ぐしんのもの)斎院(さいいん)黒白酒(くろしろき)
 用語:稲、束稲(そくのいね)、米、抜穂田(ぬきほだ)、稲実卜部(いなみのうらべ)、造酒兒(さかつこ)、多明酒波(ためつさかなみ)、稲実公(いなみのきみ)、稲実斎屋(いなみのゆや)、御歳神(みとしがみ)、初穂、飯、御飯稲、多明米(ためつよね)、斎鍬(ゆぐわ)、斎斧(ゆおの)、黒白酒料米(くろしろしゅりょうまい)
(六)大嘗宮(おおにえのみや)
 用語:斎鍬、衾(ふすま)、稲実卜部
(七)卯日(うのひ)ノ儀(ぎ)
 用語:稲輿(いなこし)、多明物(ためつもの)、飯筥(いいのはこ)
(八)豊楽院(ほうらくいん)辰日(たつのひ)ノ儀(ぎ)
 用語:造酒、衾
(九)巳(み)午(うま)両日(りょうじつ)之(の)儀(ぎ)
 用語:直会(なおらい)
伊能先生小伝
奥付
(伊能頴則著『大嘗祭儀通覧』如蘭社1913年)

☆同書執筆の基本姿勢について、伊能は「凡例」において次のように記述しています。句読点は引用者。

凡例
此(この)書(しょ)延喜式(えんぎしき)を以て本書とし、貞観儀式(じょうがんぎしき)、西宮記(さいきゅうき)、北山抄(ほくざんしょう)、江次第(ごうしだい)等を参照。
貞享(じょうきょう)御再興(ごさいこう)以来の儀は、大嘗会(だいじょうえ)具釈(ぐしゃく)、同(どう)便蒙(べんもう)等。
(伊能頴則『大嘗祭儀通覧』如蘭社1913年)

☆平安時代の『貞観儀式』、源髙明著『西宮記』、藤原公任著『北山抄』、大江匡房著『江(家)次第』は、有職故実(ゆうそくこじつ)に関する古典的著作です。江戸時代の『大嘗会具釈』は荷田春満(かだのあずままろ)の著作、『大嘗会便蒙』は荷田在満(かだのありまろ)の著作です。明治期に編纂された百科全書の『古事類苑』には、これらの文献の要点が網羅されています。

☆『大嘗祭儀通覧』の「抜穂(ぬきほ・ぬいぼ)」に関する記述の中に、祭儀に従事する女性の役職が記載されています。「造酒兒(さかつこ)」という女性だけの役職について考えてみましょう。※句読点と(    )は引用者。

造酒兒
 神語(しんご)、佐可都古(さかつこ)当郡の大少領ノ女、未嫁(いまだかさず)卜食(うらはみ)のものを取て是に充(あつ)。

☆『延喜式』の記述をそのまま引用した説明です。大領(たいりょう・おおきみやつこ)は郡司の長官です。少領(しょうりょう・すけのみやつこ)は郡司の次官です。「未嫁」とあるので、「造酒兒」は地域の有力者の娘で独身の女性です。「当郡(とうぐん・とうこおり)」という規定は、明治天皇の大嘗祭では適用されなかったのでしょう。

☆「造酒兒」は、大嘗祭では女性の重要な職掌です。『延喜式』には「抜穂」から「大嘗宮」の設置まで、詳細に規定されています。※(   )の訓読は引用者。

抜穂
造酒兒等屋一宇(さかつことう、おくいちう)
臨田抜之先造酒兒(たにのぞみこれをぬく、まずさかつこ)
造酒兒執斎鍬始掃地(さかつこゆぐわをとり、はじめてちをはく)
造酒兒先取斎斧始伐木(さかつこ、まずゆおのをとり、はじめてきをきる)
造酒兒先苅(さかつこ、まずかる)
御井者造酒兒始掘(みいはさかつこ、はじめてほる)
(『交代式・弘仁式・延喜式前篇』吉川弘文館1989年)

☆酒造(しゅぞう)だけでなく、あらゆる作業の先頭に「造酒兒」が位置づけられているのは、大変興味深い史実です。明治の大嘗祭の「抜穂」で、「造酒兒」が甲斐国巨摩郡と安房国長狭郡へ派遣された記録は残っていません。

2019年8月



《掲示板》

◎9月の行事
9月 1日(日):第6回企画展開催中、9月30日まで
9月 2日(月):亀太郎忌
9月 4日(水):予約客様
9月 7日(土):資料調査(県内)
9月14日(土):臨時休館(台風被害復旧作業)
9月15日(日):臨時休館(台風被害復旧作業)
9月21日(土):復旧作業
9月22日(日):復旧作業
9月28日(土):予約客様
9月29日(日):予約客様

◎民権林園
☆収穫:胡瓜(豊作)、ミニトマト(豊作)、茄子(平作)青紫蘇(平作)、オクラ(平作)
☆作業:玉葱種蒔き、大豆草取り
☆花々:百日草(白・赤)、曼珠沙華(紅)、大豆の花(白・薄紫)、胡瓜の花(黄)、茄子の花(紫)、オクラの花(薄黄)
☆災害:九州(長崎・佐賀・福岡)で大雨洪水被害、アマゾンで大規模森林火災、バハマで巨大ハリケーン、台風15号のため千葉県で大規模停電、断水、家屋被災

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(9月)
□嶺田楓江『海外新話(巻之一)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之二)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之三)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之四)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之五)』和本1849年発行(複製)
□チラシ「町田の近代と青年」町田市立自由民権資料館2019年7月13日~9月29日
□『地方史情報139』岩田書院2019年9月発行
□チラシ「ゆき・すきサミット The Summit of YUKI・SUKI for DAIJO-SAI festival」明治神宮会館2019年9月21日12時~15時30分
□チラシ「浮世絵でよむ、南総里見八犬伝」城西国際大学水田美術館2019年9月17日~10月12日
□チラシ「全国自由民権研究顕彰連絡協議会(全国みんけん連)第1回大会」東京都豊島区西巣鴨2019年10月20日13時~17時20分



《民権館歳時記》

☆9月は大嘗祭に従事した女性の役割について考えてみましょう。『大嘗祭記、二』(宮内庁書陵部蔵)に、明治の大嘗祭に実際に従事した女官の人名が記載されています。※(    )は引用者。

女官人名
 陪膳采女(ばいぜんのうねめ)、鴨脚(いちょう)克子
 後取采女(しんどりのうねめ)、壬生(みぶ)広子
 采 女、山口益子
 采 女、戸田晴子
 采 女、堀内素子
 采 女、虫鹿良子
 采 女、世続峰子
 采 女、入谷容子
 采 女、古谷建子
 采 女、岡本高子
(『大嘗祭記、二』写本1871年、宮内庁書陵部蔵)

☆11月17日の「悠紀次第」の「第四鼓」には、「采女」の給仕の内容について記載されています。大嘗祭の研究では注目されて来なかった点なので、紹介しましょう。

第四鼓
陪膳采女(ばいぜんのうねめ)一人、楊枝筥(ようじばこ)ヲ執ル
後取采女采女(しんどりのうねめ)一人、御巾(きん)筥ヲ執る
采女一人、神簀薦(すごも)ヲ執ル
同一人、御食薦(すごも)ヲ執ル
同一人、御箸(はし)筥ヲ執ル
同一人、平手(ひらて)筥ヲ執ル
同一人、御飯(おめし)筥ヲ執ル
同一人、生魚(いきうお)筥ヲ執ル
同一人、干魚(ひうお)筥ヲ執ル
同一人、菓子(かし)筥ヲ執ル
(中略)
右(みぎ)神饌具(しんせんぐ)陪膳後取(ばいぜんしんどり)ノ采女(うねめ)二人、簀子(すのこ)ニ候シ次第ニ取テ之ヲ奉ス。
(『大嘗祭記二』写本1871年、宮内庁書陵部蔵)

☆采女が上記の序列順に給仕したのであれば、①楊枝(鴨脚克子)、②巾(壬生広子)、③簀薦(山口益子)、④食薦(戸田晴子)、⑤箸(堀内素子)、⑥平手(虫鹿良子)、⑦御飯(世続峰子)、⑧生魚(入谷容子)、⑨干魚(古谷建子)、⑩菓子(岡本高子)ということになります。明治前期の女官については、残念ながら名著の高群逸枝著『女性の歴史』(講談社文庫)や村上信彦著『明治女性史』(講談社文庫)にほとんど記述がありません。

☆古代の「采女」について、高校生のための『日本史用語集』(山川出版2018年)は、「国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)などの地方豪族が朝廷に貢進した女性、大王(おおきみ)の身辺の雑役に奉仕」と簡潔に説明しています。

☆采女に関する有名な史料は『日本書紀』(720年)の「改新の詔」(646年)です。第四項に次のような記述があります。

凡(およ)そ采女(うねめ)は、郡(こおり)の少領(すけのみやつこ)より以上(かみつかた)の姉妹(いろも)、及(およ)び子女(むすめ)の形容(かお)端正(きらきら)しき者を貢(たてまつ)れ。従丁(ともよほろ)一人、従女(ともめわらわ)二人。一百戸(ももへ)を以て、采女一人が粮(かて)に充(あ)てよ。
(『日本書紀、四』岩波文庫1995年)

☆『万葉集』には各地から献上された采女に関する短歌や長歌が収載されています。
(1)采女・・・巻第一、51 ※志貴皇子作
(2)采女安見児(うねめやすみこ)・・・巻第二、95 ※藤原鎌足作
(3)吉備津采女(きびのつのうねめ)・・・巻第二、217 ※柿本人麿作
(4)駿河采女(するがのうねめ)・・・巻第四、507、巻第八、1420
(5)因幡八上采女(いなばのやかみのうねめ)・・・巻第四、535 ※安貴王
(6)豊島采女(としまのうねめ)・・・巻第六、1026、1027
(7)陸奥国前采女(みちのくのくにさきのうねめ)・・・巻第十六、3807 ※葛城王作

☆斎藤茂吉『万葉秀歌』(岩波新書)は、上記(1)と(2)を採録して鑑賞しています。志貴皇子(しきのみこ)の短歌を読んでみましょう。

婇女(うねめ)の袖(そで)吹(ふ)きかへす明日香(あすか)風(かぜ)都(みやこ)を遠(とお)みいたづらに吹く
(斎藤茂吉『万葉集秀歌、上巻』岩波新書1938年)、(中西進訳注『万葉集、一』講談社文庫1978年)、(門脇禎二『采女、献上された豪族の娘たち』中公新書1965年)

☆短歌の解釈は以下の通りです。

明日香に来て見れば、既に都も遠くに遷(うつ)り、都であるなら美しい采女等の袖をも翻(ひるがえ)す明日香風も、今は空しく吹いている。
(斎藤茂吉『万葉集、上巻』岩波新書1938年)

☆「婇女の」を「タヲヤメノ」と訓読した例もあるようです。斎藤茂吉は、「ウネメラノ」と5音で訓読してはいかがかと記述しています。

☆『大嘗祭記、三』(写本、宮内庁書陵部蔵)は、女官の役職と等級を次のように記載しています。※(    )は引用者。

女官人名、等級
命婦(みょうぶ)  八等
  鴨脚克(特)子
  壬生広子
女嬬(にょうじゅ) 十二等
  山口益子
  戸田晴子
  堀内素子
  虫鹿良子
  世続峰子
  入谷容子
  古谷建子
権女嬬(ごんのにょうじゅ) 十三等
  岡本高子
(『大嘗祭記、三』写本1871年、宮内庁書陵部蔵)
 ※上掲資料に拠ると「特」は「克」の誤記。

☆鴨脚克子(いちょう・かつこ)は京都の下鴨神社宮司の娘で、皇女和宮(かずのみや)に随行して江戸城大奥に居たことがあります。和宮は孝明天皇の妹ですが、14代将軍の徳川家茂に嫁いだ女性です。鴨脚克子は明治維新後、宮内省の女官(命婦)として勤務しました(『明治維新人名辞典』吉川弘文館、『日本女性人名辞典』日本図書センター)。

☆参考までに『大嘗祭儀通覧』に記述されている女性の職掌を列挙しておきます。

女性の職掌名
(三)御禊河原頓宮行幸鹵簿
用語:女蔵人(にょくろうど)、女嬬(にょうじゅ)、采女(うねめ)、氏女(うじめ)

(五)抜穂ノ供神物、齋院ノ黒白酒
用語:造酒兒(さかつこ)、歌女(うため)、織女(おりめ)、潜女(かずきめ)
(六)大嘗宮
用語:猨女(さるめ)、命婦(みょうぶ)、女嬬(にょうじゅ)

(七)卯日ノ儀
用語:采女(うねめ)、十姫(とおひめ)、後取の采女(しんどりのうねめ)、最姫(もひめ)、次姫(じひめ)
(伊能頴則著『大嘗祭儀通覧』如蘭社1913年)

☆愛用の電子辞書(精選版日本国語大辞典)に拠ると、「女蔵人(にょくろうど)」は宮中の下級の雑用係で、「氏女(うじめ)」は有力氏族が宮廷に上進した同族の子女です。「潜女(かずきめ)」は文字通り海中に潜る仕事をした女性で、「猨女(さるめ)」は神楽の舞等に従事した女性です。「最姫(もひめ)」は陪膳采女(ばいぜんのうねめ)、「次姫(じひめ)」は後取采女(しんどりのうねめ)のことでしょう。

☆浅井虎夫著『新訂・女官通解(にょかんつうかい)』(講談社学術文庫1985年)は、「命婦(みょうぶ)」について、「女子にして、四位、五位の位階を有する者」と記述しています。「女嬬(にょうじゅ)」については、「雑役、御所内の掃除、油さし」に従事した女性と記述しています。


(2019年9月)