2020年



《掲示板》

◎1月の行事
1月 1日(水):「みんけん館通信」第14号発行
1月 4日(日):仕事始め
1月11日(土):秀峯忌
1月18日(土):七郎忌
1月26日(日):予約客様

◎民権林園
☆収穫:里芋(並作)
☆作業:空豆土寄せ
☆花々:椿(紅・白)、水仙(黄・白)、山茶花(赤)

◎災害と異常気象
▲フィリピンのルソン島で火山爆発
▲オーストラリア南東部の山林大火災で野生動物多数被災

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(1月)
□『句集・ふりみだす』本阿弥書店2019年11月30日
□古書目録『和の史第264号』思文閣2019年12月
□雑誌『日本史の研究267』山川出版社2019年12月
□リーフレット『教育「貧困」県千葉をただす―多様な学びの場を求めて』2020年1月12日
□資料「由基(ゆき)学校の瓦」(明治期)2020年1月※鴨川市民から寄託



《民権館歳時記》

☆20世紀は「二つの世界戦争」と「社会主義革命」の100年であったと思います。21世紀は「多発する民族紛争」の100年になるのではないかと筆者は予想しました。

☆どうも予想は外れて、地球規模の「人為的自然災害」の時代に入ったようです。今後も異常気象のウオッチングと記録は継続したいと思います。

☆民権家の漢詩と「平仄(ひょうそく)」について考えることを1年近く休みました。次回企画展の為に再開します。今月は千葉卓三郎の「無題」(七言絶句)の「平仄」を考えてみましょう。

☆「〇」は平声(ひょうしょう)、「●」は仄声(そくせい)、「◎」は平仄両用の記号です(林古渓著『新修平仄字典』明治書院1935年)。平声、仄声、平仄両用の区分は小川環樹他編『新字源・改定新版』(角川書店2017年)で確認しました。

平仄(平起・下平八庚)、1882(明治15)年頃の作
 千辛万苦是吾行        ↓模範的平仄
 〇〇●●●〇◎         平平仄仄仄平韻
 
 不撓堂々生気盛
 ◎●〇〇◎●◎         仄仄平平仄仄韻
 
 枕石夜中眠路上
 ●●●◎〇●●         仄仄平平平仄仄
 
 杜鵑一叫夢難成
 ●〇●●◎〇〇         平平仄仄仄平韻
(江井秀雄著『自由民権に輝いた青春』草の根出版会2002年)
※平仄の「模範的図式」は、小川環樹著『唐詩概説』(岩波文庫2005年)に依拠しました。

訓読
 千辛(せんしん)万苦(ばんく)是(こ)れ吾(わ)が行(たび)
 不撓(ふとう)堂々(どうどう)生気(せいき)盛(さか)ん
 石(いし)に枕(まくら)し夜中(やちゅう)路上(ろじょう)に眠(ねむ)り
 杜鵑(とけん)一叫(いっきょう)夢(ゆめ)成(な)り難(がた)し
※前掲『自由民権に輝いた青春』の訓読を参照し、部分的に筆者独自の訓読を試みました。

☆起句の第2字が平声なので、平起(ひょうおこり)の七言絶句です。28字中の26字が平仄の模範的図式に則っています(92.9%)。転句の「夜」と結句の「杜」だけが不規則ということになります。

☆押韻は起句の「行(八庚)」、承句の「盛(八庚)」、結句の「成(八庚)」です。すべて下平(かひょう)の八庚(はっこう)に属し、規定通りに作詩されています(前掲『唐詩概説』、石川梅次郎・浜久雄編『詩韻含英異同辨』松雲堂書店1962年)。千葉卓三郎は漢詩の平仄について正確な知識を習得していたと思われます。

☆起句の「千辛万苦(〇〇●●)」は様々な苦労を意味します。「行(◎)」を「たび」と訓読してみました。吉川幸次郎著『元明詩概説』(岩波文庫2006年)に「我行(わがたび)」、「行人(たびびと)」の用例が有ります。かつて色川大吉氏は、千葉卓三郎を「放浪の求道者」と形容しました(『明治の文化』岩波書店1970年)。卓三郎の末年の七言絶句(後述)には「旅窓夢」の詩句が有ります(後述)。

☆承句の「不撓(◎●)」は困難に屈しないことです。「生気(◎●)」は若々しい活気を意味します。千葉卓三郎はこの頃31歳です。

☆転句の「枕石(●●)」は、四字熟語の「枕石漱流(いしにまくらしながれにくちすすぐ)」(『蜀志』)を踏まえたものでしょう。意味は隠遁して自由な生活を送ることです。

☆文豪夏目漱石の雅号は、「漱石枕流(いしにくちすすぎながれにまくらす)」(『晋書』、『世説新語』)という負け惜しみの故事が由来であると云います。夏目漱石自身の五言古詩(正岡子規宛書簡1890年8月)に、「漱石又枕石(いしにすすぎてまたいしにまくらし)」の詩句が残っています(前掲吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波文庫2002年、『漱石全集第18巻(漢詩文)』岩波書店1995年)。

☆結句の「杜鵑(●〇)」は夏鳥のホトトギスです。「夢難成(◎〇〇)」とはどういうことでしょうか。前掲『自由民権に輝いた青春』には、五日市憲法草案を完成させた「卓三郎の燃えるような情熱が、この漢詩のなかに凝縮されていた」と記述されています。大変示唆に富む見解です。

☆起句の「辛苦(〇●)」、承句の「堂々(〇〇)」と「生気(◎●)」、転句の「枕石(●●)眠(〇)」、結句の「杜鵑(●〇)」と「夢(◎)成(〇)」は漢詩の手引書である『詩韻含英異同辨』に集録された熟語(詩語)です。

☆1852(嘉永5)年6月17日に生まれた千葉卓三郎は、1883(明治16)年11月12日に他界しました(『自由新聞』)。同年の12月28日に、薫陶学舎の嶺田楓江も他界しています(『自由新聞』)。

☆浅学ながら、千葉卓三郎の漢詩を現代中国音で読むとどうなるかを記載します。現代中国音の表記も、小川環樹他編『新字源・改定新版』(角川書店2017年)を参照しました。

現代中国音
 千  辛  万  苦  是  吾  行
 qiān xīn  mò   kǔ  shì  wū   xíng
 
 不  撓  堂  々  生  気  盛
 bù   náo  táng táng shēn xì  chén
 
 枕  石  夜  中  眠  路  上
 zhěn shí  yè  zhōn mián lù  shàng
 
 杜  鵑  一  叫  夢  難  成
 dù  juān yī  jiào mén nán  chén


☆次に、早世した千葉卓三郎が残した末年の七言絶句の平仄を考えてみましょう。

平仄(平起・上表五微)1883(明治16)年頃
 関山風雪江河雨      ↓模範的平仄
 ○○◎●○○●       平平仄仄仄平韻

 客路十年事尚違
 ●●○○●●○       仄仄平平仄仄韻

 半世空過旅窓夢
 ●●◎◎●○◎       仄仄平平平仄仄

 杜鵑頻勧不如帰
 ●○○●◎◎◎       平平仄仄仄平韻
(前掲『自由民権に輝いた青春』草の根出版会2002年所載図版、鈴木富雄著『ガイドブック五日市憲法草案』日本機関紙出版センター2015年)

☆起句の第2字が平声なので、平起(ひょうおこり)の七言絶句です。この漢詩の平仄は破格です。28字中の22字(78.6%)しか模範的図式に一致しません。七言絶句で6字(江、雨、旅、窓、杜、頻)が模範的図式に不一致であるのは乱調です。規定通りに作詩されているのは承句の「客路十年事尚違(●●○○●●○)」だけです。

☆結句にホトトギス(杜鵑、不如帰)が2回登場するのは異様です。成鳥が幼鳥に戻るということでしょうか。ホトトギスは他に「時鳥」、「子規」等の表記が有ります。

☆押韻は起句の「雨(●)」が不規則です。通常ならば「関山風雪江河霏(ひ)たり」とすべき所です。「霏(○)」は韻字表の「五微(ごび)」に属する漢字で、雪や雨が入り乱れて降ることを意味します。承句の「違(○)」、結句の「帰(○)」は「五微(ごび)」に属し規則通りになります。

☆この七言絶句には2種類の訓読が有ります。色川大吉著『明治の文化』(岩波書店1970年)の訓読を先ず読みましょう。

訓読
関山(かんざん)風雪江河(こうが)の雨
客路十年事(こと)尚(なお)違(たが)ふ
半世空しく過(す)ぐ旅窓の夢
杜鵑(とけん)頻(しき)りに勧(すす)む帰るに如(し)かずと
(前掲『明治の文化』)

☆『自由民権に輝いた青春』は若干異なり、次のように訓読しています。

訓読
関山(かんざん)風雪(ふうせつ)紅河(こうが)の雨(あめ)
客路(きゃくろ)十年事(こと)尚(なお)違(たが)う
半世(はんせい)空(むな)しく過(す)ぐる旅窓(りょそう)の夢(ゆめ)
杜鵑(とけん)頻(しきり)に勧(すす)む帰(かえ)るに不如(しかず)

☆大きな違いは、色川氏が起句の第5字と第6字を「江河」と判読し、江井氏が「紅河」と判読していることです。前掲『自由民権に輝いた青春』所載図版を見ると、「江」の偏と「河」のさんずいの書体が同一です。

☆漢和辞典では「江河」は中国の長江と黄河です。近世日本漢詩の「江城」という熟語(詩語)は、殆ど江戸城を意味しますので、「江河」は江戸を流れる川ということになるでしょう。千葉卓三郎は1883(明治16)年11月12日に東京で病死しました。

☆「紅河」という熟語は前掲『詩韻頷英異同辨』に見当たりません。「紅」は千葉卓三郎の故郷である宮城県を流れる「荒雄川」の「荒」のように解釈できるでしょうか。

☆起句の「関山(○○)」と「江河(○○)」、承句の「客路(●●)」と「事(●)違(〇)」、転句の「半生(●●)」と「旅(●)夢(○)」、結句の「杜鵑(●○)」が、前掲『詩韻頷英異同辨』に熟語(詩語)として集録されています。「関山」は故郷のことで、「客路」は旅路を意味します。

☆起句の第5字と第6字は、詩語の「江河」であると筆者は解釈しています。

☆参考までに七言絶句の現代中国音を記載します。押韻の「雨 yǔ 」が不規則であり気にかかります。

現代中国音

 関  山  風  雪  江  河  雨
 guān shān fèng xuě  jiāng hé  yǔ
      
 客  路  十  年  事  尚  違
 kè  lù  shí  nián shì  shàng wéi

 半  世  空  過  旅  窓  夢
 bàn  shì  kōng guō  lǔ chuāng méng

 杜  鵑  頻  勧  不  如  帰
 dù  juān pín  quàn bù  rú  guī

☆来月は深沢権八(武陽)の七言律詩「悼 千葉卓三郎(天舟)」等の平仄を検討する予定です。

(2020年1月)

※2月~5月はコロナ禍による臨時休館のため休筆しました。


《掲示板》

◎6月の行事
6月 1日(月):梅干し漬込(第2回)
6月 9日(火):巨峰忌(安田勲顕彰)
6月15日(月):千葉県民の日
6月19日(金):開館八周年
        :桜桃忌
6月23日(火):柳蛙忌(井上伝蔵顕彰)

◎民権林園
☆収穫:青梅(台風被害で不作)、馬鈴薯(並作)
☆作業:植付(胡瓜・茄子・ミニトマト・里芋)、草刈り
☆花々:バラ(紅・白・桃・黄)、槿(紫・白)、紫陽花(紫・青・白)

◎異常気象・災害・感染症
▼鹿児島県の十島村で50年に1度の豪雨、土砂崩れ、停電、断水。
▼東京都と埼玉県で局所的な短時間豪雨。
▼長崎県五島市、佐世保市等で50年に1度の豪雨(線状降水帯現象)。
▼シベリア(ベルホヤンスク)で気温が38.0℃まで上昇。
▼中国の長江流域で80年に1度の大洪水。
▼新型コロナウイルス(covid-19)感染者が世界で1000万人超、死者は50万人超。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(6月)
□『四街道の歴史・資料編近現代3』四街道市2020年3月
□会報『忘らえぬかも・第11号』大網白里市郷土史研究会2020年4月1日
□通信『評論№217号』日本経済評論社2020年4月
□会報『秩父№196』秩父事件研究顕彰協議会2020年5月
□目録『思文閣古書資料目録№265号』思文閣出版2020年6月



《感染症と地域の近代》①

☆2020年1月の武漢封鎖以降、自宅に引き籠るようになり4ヵ月が過ぎ去りました。感染して他界された世界各地の皆様の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

☆筆者は基礎疾患がありますので、新型コロナウイルスに感染して入院することがないように細心の注意を払ってきました。外出自粛中は、家族と共にテレビ朝日のコロナ禍に関する報道番組を朝晩見続けました。

☆千葉県の南房総にも多くの病院がありますが、院内感染は現在まで発生しませんでした。報道では鴨川市内に1人の陽性者も発見されていません。

☆筆者は停年退職まで30余年間、千葉県内で日本史や世界史等の授業を担当しました。授業で感染症の歴史に関する資料を取り上げたことが殆どなかったので、今になって自らの不明を恥じています。妻は獣医師、長男夫婦は医師なので、細菌やウイルスに関して家族から学んでいます。

☆先日、自宅物置の書棚から25年前の岩波文庫が偶然転がり落ちてきました。『摘録・鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』(1995年初版)です。同書は江戸時代の尾張藩士の日記です。

☆開いてみましたら、1707(宝永4)年の日本は災害や疫病の大変多かった年で、8月は全国各地で風水害と高潮が発生しました。10月は名古屋で大地震があり、11月23日に富士山(宝永山)が噴火し、降灰が関東や東海に積もりました。

☆偶然を天啓と受け止め、富士山(宝永山)再噴火への対蹠について愚考をめぐらしています。300年前は噴火の煙と砂で各地に感冒が大流行し、日記には狂歌が記されています。

是やこの行も帰るも風引て 知るもしらぬも大形はセキ
(『摘録・鸚鵡籠中記』岩波文庫1995年、下巻)

☆百人一首「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」(蝉丸)のパロディーのようです、「咳」と「関」が掛詞になっています。「大形」は「大方」でしょうか。

☆筆者は齢(よわい)古希になりました。人生の晩年です。2011年春は1000年に1度の大震災と原発汚染(千葉県では津波と液状化)に驚愕(きょうがく)し、2019年秋は50年に1度の大型台風(千葉県では多数のブルーシート屋根の現出)に痛打され、2020年冬は100年に1度の新型コロナパンデミック(千葉県は特定警戒都道府県に指定)に戦慄(せんりつ)しています。次はいったい何が襲来するのでしょうか?

☆遅れ馳せながら、房総自由民権資料館が所蔵する日記資料等から感染症(コレラ、スペイン風邪・マラリア等)について再考しようと思います。『原敬日記』(乾元社、福村出版、北泉社)、『摘録・断腸亭日乗』(岩波文庫)には近代のスペイン風邪流行に関する記述があります。『重城保日記』(うらべ書房)、『原亀太郎日誌』(当館所蔵)には近代のコレラ流行に関する記述があります。前掲『摘録・鸚鵡籠中記』(岩波文庫)には、江戸時代の富士山噴火と降灰による感冒の大流行が記述されています。

 * * * * *

☆先ずは、スペイン風邪流行について、『原敬日記』を読んでみましょう(句読点は引用者)。

1918(大正7)年10月26日
 午後三時の汽車にて腰越(こしごえ)別荘に往く。昨夜、北里研究所社団法人となれる祝宴に招かれ其の席にて風邪にかゝり、夜に入り熱度三十八度五分に上る。
(『原敬日記第8巻』乾元社1950年8月)

☆原首相は10月25日の祝宴でスペイン風邪(第1回流行)に感染したようです。今風に言えば「クラスター」の発生ということになるでしょう。「腰越別荘」は鎌倉市にあった原敬の別荘で、時々この別荘で休養しています。

☆「北里研究所」は1914(大正3)年に北里柴三郎が設立した伝染病の研究所です。北里はペスト菌の発見者でした。高名な伝染病研究所の祝賀会でスペイン風邪に感染したのであれば皮肉な出来事でした。

1918(大正7)年10月29日
 午前腰越より帰京、風邪は近来各地に傳播(でんぱ)せし流行感冒(俗に西班牙風と云ふ)なりしが、二日間斗(ばか)りにて下熱し、昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり。
(前掲『原敬日記第8巻』)

☆原首相は数日で平熱に戻ったようですから、今風に言えば「軽症者」ということになるでしょう。11月1日は予定を変更して枢密院会議に出席しています。

1918(大正7)年11月1日
 皇室典範の追加案、枢密院(すうみついん)の議に上る。余(よ)は流行感冒全快後一週間を経ざるに因(よ)り出席遠慮せしも出御(しゅつぎょ)なきに因り出席然(しか)るべしと枢密院よりの申越に付出席したり。
(前掲『原敬日記第8巻』)

☆皇室典範の「增補」案は、「皇族女子は王族又は公族に嫁する」というものでした。大正天皇は次第に体調を悪化させていました(原武『大正天皇』朝日新聞社、古川隆久『大正天皇』吉川弘文館)。1918(大正7)年は8月から各地で米騒動が勃発しています。

 * * * * *

☆『原敬日記』に優るとも劣らないのが厖大な永井荷風著『断腸亭日乗』です。1920(大正9)年正月にスペイン風邪(第2回流行)に感染したことを記述しています。

☆1月12日に「忽然(こつぜん)悪寒(おかん)を覚え、目下流行の感冒に染みしなるべし」と記述しています。1月13日に体温が40度に上がったようで、万一のことを考え病床で遺書を認(したた)めました(『断腸亭日乗』全集版)。

1920(大正9)年1月22日
 悪熱次第に去る。目下流行の風邪に罹(かか)るもの多く死する由(よし)。余(よ)は不思議にもありてかひなき命を取り留めたり。
(『摘録断腸亭日乗・上』岩波文庫1987年)

1920(大正9)年1月25日
 母上余の病軽からざるを知り見舞に来らる。
(前掲『摘録断腸亭日乗・上』)

☆40度の高熱を発症し遺書を残す程でしたから、荷風は「軽症者」であったとは言えないでしょう。生母は病床の荷風を見舞いに訪れました。

☆内務省衛生局編『流行性感冒』(平凡社東洋文庫2008年)によると、日本におけるスペイン風邪の流行は3回有りました。
●第1回流行・・・1918(大正7)年8月~1919(大正8)年7月
 患者:2,116万8,398人
 死者:25万7,363人
●第2回流行・・・1919(大正8)年8月~1920(大正9)年7月
 患者:241万2,097人
 死者:12万7,666人
●第3回流行・・・1920(大正9)年8月~1921(大正10)年7月
 患者:22万4,178人
 死者:3,698人

☆1919(大正8)年の日本の総人口は約5,500万人でした。前掲書によると約2,400万人が罹患し、約39万人(速水融の推計では45万人)が病死したようですから、近代日本では想像を絶する大流行です。克明な日記を残した政治家の原敬は第1回流行期に感染し、作家の永井荷風は第2回流行期に感染しました。強運な二人は治癒しています。

 * * * * *

☆次は、昭和天皇が皇太子時代にスペイン風邪に感染した史実について考えましょう。基本資料は『昭和天皇実録』です。昭和天皇が発症したのは1918(大正7)年11月3日と記述されていますから、スペイン風邪の第1回流行期でした。

☆昭和天皇は二度の世界戦争と外国軍による占領統治を体験した歴史上稀有な天皇でした。波瀾万丈の生涯をおくりました。昭和天皇は、スペイン風邪(感染症)や関東大震災(自然災害)との関わりから検討されたことはこれまで余りなかったように思います。関東大震災は、病弱な大正天皇の摂政を務めていた時期の出来事です。伊勢湾台風(1959年9月)の上陸は戦後の「人間天皇」の時代です。

☆天皇(皇太子)自身がスペイン風邪に感染したルートについては、『昭和天皇実録・第二』に明記されませんでした。感染ルートと思われる記述を発症前後から書き抜いてみましょう。

1918(大正7)10月年26日
 海軍軍令部へ御出務になる。
(『昭和天皇実録・第二』東京書籍2015年)

☆前述のように、原敬首相は10月26日の日記に、前夜の北里研究所の祝賀会でスペイン風邪に感染したと記述しています。

1918(大正7)年10月28日
 浦塩派遣軍参謀中島正武帰朝参殿につき謁を賜い、シベリアにおける戦況、浦塩派遣軍の活動等につき言上をお聞きになる。
(前掲『昭和天皇実録・第二』)

☆「浦塩(うらじお)」はロシアのウラジオストクのことで、「浦塩派遣軍」はシベリア出兵の派遣軍のことでしょう。中島正武は高知県出身です。

1918(大正7)年11月2日
 午後、御参内になり、天皇・皇后に御拝顔になる。
(前掲『昭和天皇実録・第二』)

☆上述の「天皇」は大正天皇、「皇后」は貞明(ていめい)皇后です。

1918(大正7)年11月3日
 御体調不良のため、予定を早め午後一時十五分御出門にて御帰還になる。流行性感冒と診断され、直ちに御仮床にお就きになり、以後十五日の御床払まで安静に過ごされる。
(前掲『昭和天皇実録・第二』)

☆皇太子は体調不良のため診察を受けたようです。同書には参考資料として『東宮侍従日誌』、『東宮職日誌』、『東宮御学問所日誌』等が記載されています。

1918(大正7)年11月15日
 本日御床払につき、言上のため東宮侍従本多正復を宮城へ差し遣わされる。
(前掲『昭和天皇実録・第二』)

☆2週間後の11月15日まで病の床に就きました。11月18日から東宮学問所の「学課」を徐々に再開し、11月25日に通常の日課に戻ったと記述されています。

☆皇太子時代の昭和天皇は、時々『原敬日記』に登場します。婚約内定、摂政案件、欧州旅行(専用艦「香取」)等の記述があります。原敬首相は皇太子のスペイン風邪感染について特に記述していません。両著とも大正デモクラシー期の政府中枢に関する貴重な資料と言えるでしょう。

(2020年6月)


《掲示板》

◎7月の行事
7月16日(木):「無形」忌(板垣退助没後101年)
7月19日(日):梅干し土用干し(天候不順のため延期)
7月23日(木):海の日
7月24日(金):スポーツの日
7月26日(日):「民権館通信第」第15号発行

◎民権林園
☆収穫:馬鈴薯(並作)、胡瓜(並作)
☆作業:草取り(甘藷・里芋)、植付(鴨川七里・在来種味噌豆)、茄子、ミニトマト、ゴーヤ
☆花々:バラ(深紅・桃)、槿(紫・白)、マリーゴールド(橙)、百合(白)

◎異常気象・災害・感染症
▼九州で数十年に一度の大雨洪水、球磨川、筑後川、大分川が氾濫(線状降水帯発生)。
▼岐阜県の飛騨川が氾濫(線状降水帯発生)。
▼島根県の江(ごう)の川が氾濫。
▼新型コロナウイルス(covid-19)感染者が世界で1000万人超、死者は50万人超。

◎寄贈寄託資料と連絡通信コーナー(7月)
□詩集『「花水川物語」外伝・流域の自由民権運動』横浜詩人会議出版2020年3月1日
□会報『アジア民衆史研究会会報・第46号』アジア民衆史研究会2020年6月30日
□雑誌『日本史の研究269(終刊号)』山川出版社2020年6月
□冊子、高知市立自由民権記念館編『紀要(2019年度)』高知市教育委員会2020年6月



《感染症と地域の近代》②

☆当館は最初、デジタル・ミュージアム DIGITAL MUSEUM として出発しました(1998年10月11日)。その後建物と敷地を取得し、リアル・ミュージアムとして創業しました(2012年6月19日)。

☆2020年は、コロナ禍のために高次のデジタル・ミュージアムを模索しなければならない事態に立ち至っています。弁証法では「否定」の「否定」(ヘーゲル『精神現象学』、エンゲルス『自然の弁証法』、レーニン『哲学ノート』)ですが、筆者にとって予想外の再転換です。

☆全世界の新型コロナウイルス(covid-19)感染者は1,000万人を超え、死者数は50万人を超えました。日本国内では毎日の感染者数が再び100人を超えるようになりました。第2波襲来が懸念されています。

☆6月30日現在の国内の感染者総数は1万8,969人、死者総数は976人と発表されています。感染者が1,000人以上の都道府県は、①東京都6,225人、②大阪府1,862人、③神奈川県1,502人、④北海道1,263人、⑤埼玉県1,142人となっています(「朝日新聞デジタル」2020年6月30日)。

☆7月は異常気象の大雨洪水(西日本・中国長江流域等)が断続しています。昨秋の房総は凄まじい台風被害でした。ボランティアの皆様にブルー・シート設置等で大変お世話になりました。

☆怖い物を列挙した故事に「ジシン、カミナリ、カジ、オヤジ」があります。昨今は「コロナ、コウズイ、ドシャ、フンカ」のようです。老骨ながらできる限り被災者救援に協力したいと考えています。

☆7月下旬の「Go To」キャンペーンから、リスクの大きい「東京発着」プランが除外されました。感染拡大の折、4連休(海の日・スポーツの日・土・日)に観光キャンペーンをスタートさせることは、常軌を逸した愚策と思われます。

☆1918(大正7)年、作家の芥川龍之介はスペイン風邪に感染し、高浜年尾(たかはま・としお)宛の葉書(11月2日)に次のような佳句を記しています。高浜年尾は俳人の高浜虚子の長男です。(     )は引用者。

・・・僕は今スペイン風でねています。うつるといけないから来ちゃ駄目です。熱があって咳(せき)が出て甚(はなはだ)苦しい。
 胸中の凩(こがらし)咳となりにけり
(『芥川龍之介全集第10巻』書簡458、岩波書店1978年)

☆芥川は「来ちゃ駄目」と葉書に記しました。1919(大正8)年はスペイン風邪の蔓延で、吾妻村(福島県)は「全村惨死(ぜんそんざんし)」、紗那村(択捉島)は「紗那全滅(しゃなぜんめつ)」と報道されています(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店2006年)。

 * * * * *

☆大正デモクラシー期の『原敬日記』には、スペイン風邪に感染し不運にも他界した人物が記述されています。1919(大正8)年4月23日は、竹田宮恒久(たけだのみや・つねひさ)死去の記述があります。(   )と句読点は引用者、以下同じ。

1919年4月23日(日記)
 竹田宮午後七時より御危篤の旨、深更(しんこう)宮内省より報知あり、無論(むろん)御薨去(こうきょ)と思ふ、先頃より御重態なりしなり。
(『原敬日記第8巻』乾元社1950年8月)

☆竹田宮恒久の死去について、『昭和天皇実録第二巻』は次のように記述しています。

1919年4月23日(日記)
 午後七時三十五分、恒久王(つねひさ・おう)が薨去する。恒久王は本月十二日より感冒に罹り、十七日より肺炎を併発、二十日には重態の報が伝えられる。
(『昭和天皇実録第二巻』東京書籍2015年3月)

☆4月12日に流行性感冒に感染し、5日後に肺炎を併発したようです(石弘之『感染症の世界史』角川文庫2018年)。竹田宮の妻は明治天皇の第6皇女でした。竹田宮の御子孫にはJOCの元会長もいます(『歴史と旅』「特集、天皇家と宮家、激動の近代史」2000年9月号)。

 * * * * *

☆次は、1919(大正8)年7月16日に他界した板垣退助に関する『原敬日記』の記述と、当時の新聞記事を読んでみましょう。今年は没後101年です。板垣の死因は「気管支加答兒(きかんしかたる)、肺炎」であったと報道されています(『讀賣新聞』、『東京朝日新聞』、『都新聞』)。

1919年3月13日(日記)
 板垣退助に昨年来、毎年、宮中(きゅうちゅう)より二千円づゝ賜(たまわ)る事を寺内より聞き居たるに付(つき)、其事(そのこと)内談したるに波多野は速に取計ふべしと云へり(後略)。
(前掲『原敬日記第8巻』)

☆「寺内」は前総理大臣の寺内正毅(てらうち・まさたけ)です。「波多野」は原内閣の宮内大臣であった波多野敬直(はたの・よしなお)です。寺内が決裁した宮中からの下賜金は、板垣に対する温情でしょうか、それとも懐柔(警戒)でしょうか。

☆板垣退助の病状について次のような新聞報道がなされています。

板垣老伯容体、昨今稍不良(新聞見出し)
 客月(かくげつ)下旬来、気管支加答兒(かたる)にて臥床(がしょう)中の板垣老伯はその後腸加答兒及び肺炎を併発し一時は病勢昂進(こうしん)し其後漸次良好に赴きつゝありしが、昨今の気候にて再び面白からざる症状を呈し。
(後略)
(『讀賣新聞』1919年7月13日)

☆「気管支加答兒」は気管支炎のことです。板垣は「肺炎」を併発しました。

☆内務省衛生局『流行性感冒』(1922年3月30日発行)は、平凡社の東洋文庫778として翻刻されました。第6章「流行性感冒の病原、病理、症候、治療、予防」の第3節「流行性感冒の症候」に、気管支カタルから肺炎を「誘起」することは多いと記述されています。

症候概論及び病型
 気管支の加答児(兒)は普通に見られ、鼻加答児(兒)より副鼻腔の炎症、結膜炎、中耳炎を併発する事あり、気管支加答児(兒)よりは肺炎、肋膜炎を誘起する事多し。
(内務省衛生局『流行性感冒━「スペイン風邪」大流行の記録』東洋文庫2008年9月)

☆カタルの表記は1922(大正11)年の原本では「加答兒」です。2008年に翻刻された東洋文庫では「加答児」となっています。

☆原敬首相は7月14日の夜、病床の板垣退助をお見舞いに急遽板垣邸(東京芝公園)を訪問しています。

1919(大正8)年7月14日(日記)
 板垣退助兼(かね)て病気の処(ところ)危篤と云ふに付、夜見舞たるに、案外応答明瞭なりしも到底久しからざるべしと医師は云へりと。
(前掲『原敬日記第8巻』)

☆スペイン風邪の第1回流行期のことです(前掲『流行性感冒』)。原敬首相自身は前年の10月にスペイン風邪に感染し既に治癒していました(前掲『原敬日記第8巻』)。板垣は1919(大正8)年7月16日に他界しましたので、昨年(2019年)は没後100年でした。筆者は板垣の命日を雅号に因み「無形忌」と呼んできました(平尾道雄『無形板垣退助』高知新聞社)。

1919年7月16日(日記)
 午前八時半板垣退助死去、直に弔訪したり。板垣方にて波多野宮相に会見し、遺族の為め特別御下賜金等を(の?)心配を依願、且つ幸に右皇恩に浴する事を得ば保管方に付確然たる者にて方法を立つる事を要する次第を物語りたり。
(中略)
 板垣の葬儀委員長たる事を旧自由党員等に頼まれ承諾し、野田卯太郎を副委員長として諸事指揮せしめたり。
(前掲『原敬日記第8巻』)

☆「波多野宮相」は原内閣の宮内大臣でした。「野田卯太郎」は原内閣の逓信大臣でした。宮中からの「特別御下賜金(とくべつごかしきん)」は、戊辰戦争以来の板垣退助の功績に対する敬意でしょうか。『昭和天皇実録第二巻』にも宮中からの弔問が記述されています。

☆板垣の死去については、『東京朝日新聞』に次のような長文の記事(病状と臨終、龍野周一郎・河野広中・杉田定一の談話)及び写真(看護の人々)が掲載されています。

板垣伯爵、今暁終に逝去、今暁二時令息を枕頭に招きて何事か遺言、何等苦痛の模様なく、三時四十分眠るが如くに(新聞見出し)
 板垣伯は十五日午後も依然昏睡状態にて刻々危険迫り稲田、木村及び広井主治医の二博士は殆ど詰切(つめきり)にて警戒し居たるが、午後六時の容態は体温三十九度六分、脈搏百十二、呼吸三十にして体温更に降下せざる為め、二博士は不審を抱き種々検診を試みたる結果、気管支加答兒(かたる)より既に肺炎に変じ居たるものなる事判明し、直に応急の手当を加へたり。
 尚一方、伯(はく)危篤の急電に接し急遽郷里土佐より東上せる長男鉾太郎氏も、昨夜八時半東京駅着列車にて上京自動車を駆(か)って芝公園の伯爵邸に入りたれば、夫人始め一同枕頭に集まり熱心看護に努め、今暁一時頃より盛んに酸素吸入等を行ひたるも終に其効なく容態は次第に絶望状態に陥り、同二時頃伯は突如「早く早く」と言葉を発したる。
(中略)
 家族近親者約二十余名の人に打(うち)護(まも)られつゝ今暁三時四十分、遂に逝去せり、享年八十三。
(後略)
(『東京朝日新聞』1919年7月16日)

☆複数の医師が不審を抱くような「体温三十九度六分」と「肺炎」は、流行性感冒(スパニッシュ・インフルエンザ)以外に考えられません。酸素吸入も施されています。同日の『都新聞』は、「板垣伯の容態は流行性感冒より肺炎となりしもの」と報道しています。抜粋して紹介しておきましょう。

板伯危篤、見舞客続集す(新聞見出し)
 危篤に陥りたる伯爵板垣退助氏は、十五日午前二時のカンフル注射にて稍(やや)持直し、同六時には体温三十八度六、同九時には体温三十八度七、脈拍百二十、呼吸二十八にて依然危険の域を脱しえず。
(中略)
 板垣伯の容態は流行性感冒より肺炎となりしものにて、昨日正午は午前は(と?)大差なく、午後三時には体温三十九度七、脈拍百二十、呼吸三十あり、午後六時には体温一分下り、午後八時も大差なく次第に昏睡状態に陥りつゝあり。
(後略)
(『都新聞』1919年7月16日)

☆服部敏良著の『近代諸家の死因』(吉川弘文館1986年)と『有名人の死亡診断・近代編』(吉川弘文館2010年)は、板垣退助の死因を「脳出血」としています。これは明かな誤りなので、訂正されなければならないでしょう。

☆歴史家の服部之総(はっとり・しそう)は、『明治の政治家たち―原敬につらなる人々―(上巻)』(岩波新書1950年)において、板垣退助の後半生を論じています。立憲政友会結党翌年の「明治三十四年は、板垣退助の政治生命が、永遠に死んでいった年である」と論断しています。寺院出身の服部が、板垣の病状と臨終について何も言及しなかったのは寂しい限りです.

※新聞の閲覧と複写については今回も千葉県立中央図書館の新聞雑誌室に大変お世話になりました。板垣退助研究の現状については高知市立自由民権記念館から懇切な御教示を賜りました。記して謝意を表します。

(2020年7月)


《掲示板》

◎8月の行事
8月 2日(日):梅干し天日干し(425粒)
8月 6日(木):「みんけん館通信」第15号発送
8月 7日(土):立秋
8月10日(火):山の日
8月15日(土):オンライン企画展↓

◎民権林園
☆収穫:胡瓜(並作)、ゴーヤ(並作)
☆作業:水撒(甘藷・里芋・大豆・胡瓜・茄子・ミニトマト)
☆花々:槿(紫・白)、百合(白)、百日紅(紅・白)、芙蓉(桃)、バラ(深紅・白・桃)

◎異常気象・災害・感染症
▼山形県最上川水系で河川氾濫(7月下旬)。
▼北海道利尻島で50年に1度の大雨(8月上旬)。
▼埼玉県でゲリラ豪雨と落雷(8月中旬)。
▼浜松市で歴代最高41.1℃(チベット高気圧+太平洋高気圧+フェーン現象か)。

◎寄贈寄託資料と連絡通信コーナー(8月)
□冊子、高知市立自由民権記念館編『紀要(2019年度)』高知市教育委員会2020年6月
□書籍『左部(さとり)彦次郎の生涯━足尾銅山鉱毒被害民に寄り添って』随想舎2020年7月9日
□通信(デジタル版)『究明する会ニュース№201』軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会2020年7月12日



《感染症と地域の近代》③

☆7月下旬から新型コロナの感染再拡大に歯止めがかからないようです。試みに7月20日(月)~7月26日(日)の千葉県、東京都、大阪府の感染者数をメモしてみました。

千葉県
 7月20日(月)18人、21日(火)15人、22日(水)40人、23日(木)33人、24日(金)26人、25日(土)21人、26日(日)22人。
東京都
 7月20日(月)168人、21日(火)237人、22日(水)238人、23日(木)366人、24日(金)260人、25日(土)295人、26日(日)239人。
大阪府
 7月20日(月)49人、21日(火)72人、22日(水)121人、23日(木)104人、24日(金)149人、25日(土)132人、26日(日)141人。
(「千葉日報」オンライン、テレビ朝日「報道ステーション」)

1週間の増加数(7月20日~7月26日)
〇千葉県・・・ 175人 ※最多は水曜日の40人
〇東京都・・・1803人 ※最多は木曜日の366人
〇大阪府・・・ 768人 ※最多は金曜日の149人

 * * * * *

☆7月27日(月)~8月2日(日)の千葉県、東京都、大阪府の感染者数は以下の通りです。

千葉県
 7月27日(月)24人、28日(火)23人、29日(水)49人、30日(木)49人、31日(金)35人、8月1日(土)73人、2日(日)51人。
東京都
 7月27日(月)131人、28日(火)266人、29日(水)250人、30日(木)367人、31日(金)463人、8月1日(土)472人、2日(日)292人。
大阪府
 7月27日(月)87人、28日(火)155人、29日(水)221人、30日(木)190人、31日(金)216人、8月1日(土)195人、2日(日)194人。
(「千葉日報」オンライン、「報道ステーション」)

1週間の増加数(7月27日~8月2日)
〇千葉県・・・ 304人(74%増)※最多は土曜日の73人
〇東京都・・・2241人(24%増)※最多は土曜日の472人
〇大阪府・・・1258人(64%増)※最多は金曜日の216人

☆東京都よりも千葉県の方が増加率が急上昇しています。周縁部の感染再拡大が激化しているということでしょうか。

☆1919(大正8)年5月の択捉(えとろふ)島は、スペイン風邪の蔓延で「全村罹病(ぜんそんりびょう)」と報道されました(『北海タイムス』)。現在の新型コロナウイルスは、佐渡島、伊豆諸島、五島列島、与論島、石垣島、宮古島、西表島等で陽性者が確認されています。離島や孤島におけるクラスター(感染者集団)発生は歴史的に見て大変な脅威です。

☆長期の予防対策を覚悟し、消毒用アルコール(醸造77%)と予防マスク(使捨・布製)等を用意しています。

☆コロナ禍における筆者の避病(ひびょう)「三戒 Three Commandments 」は、「出ざる go nowhere 」、「語らざる tell nobody 」、「触れざる touch nothing 」です。8月は「達磨(だるま)」になるか「火達磨(ひだるま)」になるか、二者択一の様相を帯びて来ました。

 * * * * *

☆8月3日(月)~8月9日(日)の千葉県、東京都、大阪府の感染者数は以下の通りです。

千葉県
 8月3日(月)43人、4日(火)47人、5日(水)50人、6日(木)76人、7日(金)65人、8日(土)53人、9日(日)46人。
東京都
 8月3日(月)258人、4日(火)309人、5日(水)263人、6日(木)360人、7日(金)462人、8日(土)429人、9日(日)331人。
大阪府
 8月3日(月)81人、4日(火)193人、5日(水)196人、6日(木)225人、7日(金)255人、8日(土)178人、9日(日)195人。
(「千葉日報」オンライン、「報道ステーション」)

1週間の増加数(8月3日~8月9日)
〇千葉県・・・ 380人(25%増)※最多は木曜日の76人
〇東京都・・・2412人( 8%増)※最多の該当なし
〇大阪府・・・1323人( 5%増)※最多は金曜日の255人

☆直近1週間の10万人当たりの感染者数は、東京都約17人(総人口1400万)、大阪府約15人(総人口880万)、千葉県約6人(総人口630万)です。これは「コロナ密度」と呼ぶべき数字ですが、沖縄県の約42人(総人口150万)が突出しています(「沖縄タイムス」)。

☆筆者もかつて沖縄県へ団体旅行をしたことがあります(ひめゆり平和祈念資料館等)。コロナウイルス感染拡大防止のため、訪問客全員(国籍を問わず)にPCR検査を実施し、安全性を担保する必要があるでしょう。

☆島根県ではハイスクール・クラスター(感染者集団)が発生したようです。今後、全国の教育機関に飛火し連鎖反応を引き起こす可能性が有りますので、危惧していた非常事態となりました。文科大臣は頻繁に記者会見を開き、後手に回ることなく国民に対応策を説明すべきです。

 * * * * *

☆千葉県、東京都、大阪府の陽性者の数をメモするようになってから4週間が経過しました。8月10日(月)~8月16日(日)の三都府県の新型コロナウイルス感染者数は以下の通りです。

千葉県
 8月10日(月)41人、11日(火)19人、12日(水)34人、13日(木)46人、14日(金)51人、15日(土)60人、16日(日)48人。
東京都
 8月10日(月)197人、11日(火)188人、12日(水)222人、13日(木)206人、14日(金)389人、15日(土)385人、16日(日)260人。
大阪府
 8月10日(月)123人、11日(火)102人、12日(水)184人、13日(木)177人、14日(金)192人、15日(土)151人、16日(日)147人。
(「千葉日報」オンライン、「報道ステーション」)

1週間の増加数(8月10日~8月16日)
〇千葉県・・・ 299人(21%減)※最多の該当なし
〇東京都・・・1847人(23%減)※最多の該当なし
〇大阪府・・・ 929人(30%減)※最多の該当なし

☆4週目にして漸く陽性者の増加率が減少に転じました。三都府県とも前の週に比較して増加率が減少しました。

☆直近1週間の10万人当たりの感染者数も、東京都約13人(総人口1400万)、大阪府約11人(総人口880万)、千葉県約5人(総人口630万)で、僅かながら減少傾向です。

☆夏休み前半の国民の外出自粛効果が少しずつ現れて来たということでしょうか。女性都知事の類稀な危機管理能力の成果でしょうか。

☆5月25日の緊急事態宣言解除前後から、感染の伝播がペースダウン⇒ペースアップ⇒ペースダウンの波状曲線を描いているように見えます。100年前のスペイン風邪では合計3回の流行期が有りました(前掲『流行性感冒』東洋文庫)。

 * * * * *

☆今月も100年前のスペイン風邪で死去した人物に関する資料を読んでみましょう。軍人政治家の明石元二郎(福岡県出身・台湾総督・陸軍大将)は、板垣退助が死去した1919(大正8)年7月に流行性感冒(スペイン風邪)に感染しています。

☆明石は日露戦争期にヨーロッパで活動した諜報将校でした(司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫)。明石の流行性感冒感染については『大阪毎日新聞』に報道されています(前掲『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』)。※句読点と(    )は引用者、以下同じ。

明石台湾総督、流感肺炎にて重体(新聞見出し)
 明石台湾総督は両(りょう)三日(さんにち)より流行性感冒にかゝりて肺炎に変じ、任地台北にて療養中なるが、頗(すこぶ)る重体なる旨、四日夜其(その)筋に電報ありたり。
(『大阪毎日新聞』1919年7月6日)

☆『原敬日記第8巻』には明石の病状について次のように記述されています。

1919年7月6日(日記)
 台湾総督明石大将病気危篤に付、叙位叙勲の取計(とりはからい)を希望し来たり。(中略)明石の大病は全く突然なり。
(『原敬日記第8巻』乾元社1950年)

☆明石元二郎がスペイン風邪によってかなり衰弱したことも報道されています。

明石総督病状、危険全く去る(新聞見出し)
 明石台湾総督の病状は其(その)後順調恢復に向ひつゝありしが、去る十四日夜突然三十九度五分の発熱あり。一時気遣(づか)はれしも主治医の手当に依り漸次(ぜんじ)降下し、十五日は平熱に復し、爾来(じらい)平静の状態を持続し、十八日の電報に依れば食欲も増進し最早危険の虞(おそれ)なきも、時節柄衰弱を来(きた)せるを以て営養(えいよう)摂取に努めつゝありと。
(『都新聞』1919年7月20日)

☆1919(大正8)年7月20日は板垣退助の葬儀が青松寺(東京)で行われた日です(後述予定)。

☆諜報将校の明石元二郎の評価を飛躍的に高めたのは、司馬遼太郎『坂の上の雲』(文芸春秋社)でしょう。この歴史小説は、愛媛県出身の軍人であった秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟の生涯を中心に描かれています。

☆「大諜報」の章には、ロシア皇帝や革命家レーニンと共に明石元二郎が登場し、壮大な展開です。しかしながら司馬遼太郎は、米国在住の朝河貫一(あさかわ・かんいち)が日露戦争後に著した『日本の禍機』(1909年)について何も言及していません。

☆筆者は40代の厄年(やくどし)の頃に高血圧で救急センターに搬送され、1ヵ月程療養を余儀なくされました。仰臥の状態でこの長編小説(文庫本全8巻)を、疲れたら休むという流儀でゆっくりと読みました。

☆1巻を読了すると、次の巻を家族に頼んで購入してもらうという、一生に一度の苦い経験でした。強運にも治癒し古希まで生き延びています。明石元二郎がスペイン風邪罹患後3ヵ月で死去したことは、当時気が付きませんでした。

☆明石元二郎は1919(大正8)年10月26日に他界しました(『原敬日記第8巻』)。『坂の上の雲』には次のように叙述されています。

『坂の上の雲』(「大諜報」の章)
 ━━あの男は、総理大臣の器ではないか。
 と、当時の元老のあいだでは定評があったというほどだったから、明石にはうまれつき経綸(けいりん)の才があった。もしその定評が真をうがっているとすれば、一国の首相になるべき者が、ロシア革命の扇動工作に従っていたということになるわけであり、単なる間諜(かんちょう)ではロシア帝国をゆさぶるような大仕事ができるはずがないともいえるかもしれない。もっとも明石は、五十六歳のわかさで病没したから、歴史はかれにおいて首相の才器を実証することができずにおわった。
(前掲『坂の上の雲・六』文春文庫新装版1999年)

(2020年8月)


《掲示板》

◎9月の行事
9月 1日(火):オンライン企画展(11月迄)
9月 2日(水):亀太郎忌
9月 9日(水):台風15号被害1周年

◎民権林園
☆収穫:這胡瓜(豊作)、オクラ(並作)
☆作業:草刈り(畑・休耕田)
☆花々:百日紅(紅・白)、バラ(深紅・白・桃)

◎異常気象・災害・感染症
▼台風9号沖縄で風速50m超、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国で被害。
▼台風10号九州直撃、暴風豪雨停電。
▼アメリカ合衆国のカリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州等で広域山火事連続。
▼北海道礼文島で竜巻、豪雨被害。

◎寄贈寄託資料と連絡通信コーナー(9月)
□雑誌『ちば━教育と文化№95』千葉県教育文化研究センター2020年7月15日
□会報『秩父№197』秩父事件研究顕彰協議会2020年7月
□『評論№218』日本経済評論社2020年8月15日



《感染症と地域の近代》④

☆9月はスペイン風邪の感染拡大を描写した文学作品について考えてみましょう。千葉県は、白樺派の志賀直哉「流行感冒」(原題は「流行感冒と石」)があります。高知県については宮尾登美子『櫂(かい)』が力作なので読んでみましょう。

☆志賀直哉「流行感冒」は、1919(大正8)年4月1日発行の雑誌『白樺十周年記念号』が初出でした。短編小説集『小僧の神様他十篇』(岩波文庫)に収録されたのは、1928(昭和3)年8月25日です。

☆千葉県我孫子(あびこ)市域のスペイン風邪流行に関する貴重な叙述です。書き始めは次のような文章です。(     )は引用者。

最初の児(こ)が死んだので、私たちには妙に臆病が浸込(しみこ)んだ。
(『白樺十周年記念号』1919年、『小僧の神様他十篇』岩波文庫1928年)

☆宮尾登美子『櫂』の「第一部五」の書き出しは、夫婦が芸娼妓紹介業を開業した場面の描写です。

緑町(みどりちょう)へ落着くと間(ま)をおかず、陽暉楼(ようきろう)の大将から岩伍(いわご)に看板の贈り物が届けられた。
(太宰治賞『展望』筑摩書房1973年7月号、『宮尾登美子全集第1巻』朝日新聞社1992年、『櫂』新潮文庫1996年)

☆「岩伍」はヒロイン「喜和(きわ)」の夫で、著者の父親がモデルです。「喜和」は著者の戸籍上の母がモデルのようです(「浮き沈み五十年」『宮尾登美子全集第14巻』)。「陽暉楼」は高知の古い料亭です。

☆志賀直哉はスペイン風邪流行の始期について、次のように叙述しています。

流行性の感冒が我孫子(あびこ)の町にもはやって来た。私はそれをどうかして自家(うち)に入れないようにしたいと考えた。
(前掲『小僧の神様他十篇』岩波文庫1928年)

☆内務省編『流行性感冒』(東洋文庫)によると、千葉県におけるスペイン風邪の第1回流行は1918(大正7)年10月から始まっています(同書第8章)。翌年1919(大正8)年1月15日までの千葉県の感染者数は27万5654人、死者数は2302人でした。

☆現在、新型コロナ流行による千葉県の感染者数は約3000人(2020年8月末現在)で死者数は63人です。100年前のスペイン風邪が、大変急速な感染拡大であったことが分かります。

☆宮尾登美子の自伝的長編小説『櫂』は感染の始期について、次のように叙述しています。

この流行性感冒(はやりかぜ)の悪辣さと来たら、今も知る人達が一つ話の種にしているほどで、罹った人は数知れず、死んだ人は高知市だけでも六百人を超えたといわれている。
町内にぽつりぽつりと患者が出始めた話を聞いたら、一両日のうちにはもう全体に拡がり、普段陽気な表通りでさえ昼間から雨戸を閉じたままの家や、半開きの陰気な家が多くなっている。
(前掲『櫂、第一部五』新潮文庫1996年)

☆宮尾登美子が生まれたのは1926(大正15・昭和元)年です(「年譜」『宮尾登美子全集第15巻』)。スペイン風邪流行のリアルな(鬼気迫る)描写は作者自身の原体験ではなく、作者の前世代から語り伝えられた情報や純度の高い取材の成果と思われます。

☆前掲『流行性感冒』(東洋文庫)によると、高知県も1918(大正7)年10月から第1回流行が始まり、翌1919(大正8)年1月15日までの感染者数は14万2697人、死者数は836人でした。新型コロナによる現在までの高知県の死者は3人です。

 * * * * *

☆志賀直哉の感染対策は経済的に裕福な家庭でなければできないものです。訪問看護師を東京から我孫子の居宅へ二人依頼しています。

そしてとうとう流行感冒に取り附かれた。植木屋からだった。私が寝た日から植木屋も皆来なくなった。四十度近い熱は覚えて初めてだった。腰や足が無闇とだるくて閉口した。
ところが今度は妻に伝染した。妻に伝染する事を恐れて直ぐ看護婦を頼んだが間に合わなかったのだ。この上はどうかして左枝子(娘)にうつしたくないと思って、東京からもう一人看護婦を頼んだ。
(前掲『小僧の神様他十篇』岩波文庫1928年)

☆志賀直哉は、短編小説集『小僧の神様他十篇』の「あとがき」に次のように述べています。

事実をありのままに書いた。(中略)この小説の左枝子という娘の前後二児を病気でとられた私はこの子供のためには病的に病気を恐れていたのだ。
(前掲『小僧の神様他十篇』岩波文庫1928年)

☆宮尾登美子は、スペイン風邪が蔓延した大正デモクラシー期の地域民衆を微細に描写しています。

「男の子が先に死に、それを抱(うだ)いてお巻(まき)さんは半日くらいは生きておったらしい。ふたありとも、骨と皮ばっかりに痩せさらばえてのう」。
豊美(お巻の娘)を陽暉楼(ようきろう)へ出したあと、お巻さんは前よりも苦しい毎日だと喜和(ヒロイン)は確かに聞いていたのだし、そんな状態の母子をこの流行性感冒が襲えばどうなるかと考えると、今はもういい逃れも出来ないほど辛い思いに追い込まれて来る。
(前掲『櫂、第一部五』新潮文庫1996年)

☆長編小説『櫂』の最終章(第四部五)は、1938(昭和13)年から1939(昭和14)年という年代設定です(「年譜」『宮尾登美子全集第15巻』)。岩伍・喜和夫妻が離婚(離縁)し、母子が離別した経緯(いきさつ)が叙述されています。

☆最終章には、離婚した喜和が1918(大正7)年のスペイン風邪蔓延を想い出す場面があります。

喜和は遠い昔、スペイン風邪に命を奪われた緑町裏長屋のお巻さんの最後の姿を目に泛(うか)べているのであった。(中略)痩(や)せさらばえて最後の水を飲む事も叶(かな)わなかったという、お巻さんの境涯(きょうがい)にひどく似ているように思えるのであった。
(『櫂、第四部五』新潮文庫1996年)

 * * * * *

☆志賀直哉は1883(明治16)年2月20日に誕生し、1971(昭和46)年10月21日に88歳で他界しました。1915(大正4)年9月から1923(大正12)年3月まで千葉県の我孫子町に住んでいます。この間、名作の「城の崎にて」(雑誌『白樺』)や「暗夜行路(前編)」(雑誌『改造』)等を発表しました(「年譜、著作年表」『志賀直哉全集第22巻』岩波書店2001年)。

☆宮尾登美子は1926(大正15)年4月13日に誕生し、2014(平成26)年12月30日に88歳で他界しました。『生きてゆく力』(海竜社、新潮文庫)は、『宮尾登美子全集(全15巻)』完結後に出版されたエッセイ集です。『櫂』の執筆動機や、スペイン風邪の話が述べられています。

家の職業のため、私がどれだけ苦しんだか、父への怨(うら)みと憤りのために作家を志したようなもので、げんに拙著『櫂(かい)』、『春燈(しゅんとう)』などにはその怒りをぶちまけてある。
私の生まれた高知市緑町の裏側には、その日の米代にも困る人たちが住む棟割(むねわり)長屋が広がっており、その戸数、百軒はあっただろうか。
当然、疫病(えきびょう)にもやられ、猛威をふるったかのスペイン風邪で、長屋からは毎日のように棺(ひつぎ)が連なって出たという話も聞いた。
(前掲『生きてゆく力』新潮文庫2012年)

※岡田晴恵編『《増補新版》強毒性新型インフルエンザの脅威』(藤原書店2009年)に、与謝野晶子や宮尾登美子と新型インフルエンザに関する予言者的な論考が収録されています。
(この項続く)


(2020年9月)


《掲示板》

◎10月の行事
10月 1日(木):オンライン企画展(11月23日迄)
10月13日(火):栗邨忌(加藤淳造顕彰)
10月22日(木):物外忌(齊藤自治夫顕彰)

◎民権林園(露地輪作・有機循環・天日湧水・無農薬安心)
☆収穫:這胡瓜(500本超、記録的大豊作)、ミニトマト(並作)、オクラ(不作)、甘藷(並作)、生姜(並作)、柘榴(豊作)、富有柿(並作)
☆作業:種蒔(菜花・蓮華草・冬越大根・高菜・春菊・法蓮草)
☆花々:菊芋の花(黄)、秋桜(白・桃)

◎異常気象・災害・感染症
▼新型コロナ感染者が世界で4000万人超(ジョンズ・ホプキンズ大学集計)、欧州で感染再拡大。
▼ノロノロ台風14号が房総沖南方を通過、東京都三宅島、御蔵島、八丈島で記録的豪雨。
▼ベトナム周辺で台風15号による豪雨と洪水被害。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(10月)
□「風景画」「静物画」数点寄贈、2020年8月
□冊子『思文閣古書資料目録』思文閣出版古書部2020年8月
□冊子『いずみ通信2029‐9』和泉書院2020年9月30日
□会報『秩父№198』秩父事件研究顕彰協議会2020年9月
□書籍『校注俳諧田ごとの日』俳句図書館鳴弦文庫2020年10月1日
□レポート「自由民権の壮士たち⑬依田佐二平(静岡県)」自由民権現代研究会2020年10月



《感染症と地域の近代》⑤

☆千葉県では様々な地域、職場でクラスター(感染者集団)が続発し、収束が見えない事態に陥っています。福祉施設、スポーツジム、院内感染、カラオケ喫茶、学校部活、保育園、社員会食、親戚会食、地場産業、工事現場、老人ホーム、観光施設、飲食店、自治体職員、地元プロ球団、民間企業社員寮、ナイトクラブ、物流倉庫(アルバイト含)、スナック、学級閉鎖(高校)等。

☆地域は県北から県南にまたがっています。治癒した後に再感染したコロナ病棟医療従事者の例も報道されました。新型コロナ指定病院の入院患者が再び重症化しているようです(「千葉日報オンライン」)。

☆千葉県外では中央官公庁(自衛隊30名超)や劇団関係者(70名超)の大規模クラスターが報道されています。100名を超える大規模クラスターの例は、千葉県の施設クラスター(3月下旬)、熊本県の造船クラスター(7月下旬)、島根県の部活クラスター(8月上旬)、青森県の飲酒店クラスター(10月下旬)等が報道されて来ました。

☆感染症の歴史を再検証し、過去と現在の対話を継続するしか術(すべ)が無いように思います。

☆先日、図書館から林真理子著『綴(つづる)る女━評伝・宮尾登美子』(中央公論社2020年2月)を借りて通読しました。武漢封鎖の翌月の発行ですから、タイムリーな出版であると感じました。

☆同書第15章の「事業」と第16章の「家出」は、「戦後民主主義と宮尾登美子」を考える上で興味深い史実を提供しています。残念ながら「スペイン風邪と宮尾登美子」に関する記述は見当たりませんでした。

 * * * * *

☆9月はスペイン風邪を叙述した日本の文学作品(志賀直哉・宮尾登美子等)を考察しました。10月は外国の文学作品を検討してみましょう。

☆当館蔵書にレマルク『西部戦線異状なし』(新潮文庫1955年)が有ります(原題はドイツ語でIm Westen nichts Neues、アメリカ映画のタイトルは ALL QUIET ON THE WESTERN FRONT)。

☆石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫2018年)はスペイン風邪と第1次世界大戦終結の連関について興味深い指摘をしています。(   )と句読点は引用者、以下同じ。

大戦終結を早めたインフルエンザ
 ドイツ軍と英仏米の連合国軍が膠着(こうちゃく)状態に陥った西部戦線は、異常事態が起きていた。ウイルスはこの最強の防衛線をいとも簡単に乗り越えてきた。兵士が塹壕(ざんごう)にすし詰めになった過密な戦いが3年半もつづいているところに、インフルエンザウイルスが侵入した。
 両軍ともに兵士の半数以上が感染し、戦闘どころではなくなった。ベルリンでは、毎週平均500人が死亡していた。
(前掲『感染症の世界史』)

☆『西部戦線異状なし』(全12章)は次のような書き出しです。

第1章5頁
 僕たちのいたところは、戦線から九キロの後方だ。
(前掲『西部戦線異状なし』)

☆第1次世界大戦の「西部戦線」から遠く離れた日本の少年少女は、いきなりヨーロッパの戦場にタイム・トラベルをすることになります。出版当時レマルクは無名の青年であったと云います(前掲書解説)。

☆小説『西部戦線異状なし』の後半には、「流行性感冒」に関する叙述が3箇所有ります。筆者は、現在の全世界的なコロナ禍を体験しなかったら、戦争終結を早めたインフルエンザという脈絡でこの小説を再読することは無かったでしょう。

☆戦場の兵士の病気については次のような叙述が有ります。

第11章316頁 
 敵(フランス・イギリス連合軍)のほうには、新鋭なイギリスと米国の軍隊が到着した。コオンドビイフと、白い小麦粉は、あり余るほどある。その上にあり余る新しい砲弾だ。あり過ぎる飛行機だ。
 それにくらべると、味方(ドイツ軍)は痩せてきた。腹を空くだけ空かした。食事は粗悪となり、代用品がうんとまぜられて、僕らはそのせいで病気にさえなった。
(前掲『西部戦線異状なし』)

☆戦争と感染症について、次のような象徴的文章が有ります。

第11章320頁
 砲弾と、毒ガスと、タンクの小艦隊が・・・踏み潰し、噛み破り、殺し尽すのである。
 疫痢と、悪性感冒と、チフスが・・・絞め殺し、焼き殺し、殺し尽すのである。
 塹壕と、野戦病院と、共同埋葬と、・・・一切がこれに尽きている。
(前掲『西部戦線異状なし』)

☆1918年の「悪性感冒」は恐らくスペイン風邪のことです。小説のラストシーンは次のように叙述されています。

第12章(終章)332頁
 ここまで書いてきた志願兵パウル・ボイメル君も、ついに1918年の10月に戦死した。その日は全戦線にわたって、きわめて穏やかで静かで、司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」という文句に尽きているくらいであった。
(前掲『西部戦線異状なし』)

☆「パウル・ボイメル君」は小説の主人公で、著者レマルクの分身と考えられます

☆1918(大正7)年10月は、前述したように東京の原敬首相がスペイン風邪に感染した時期です(前掲『原敬日記⑧』)。千葉県や高知県等でもスペイン風邪の流行が始まった頃です(前掲『流行性感冒』)。

 * * * * *

☆『原敬日記⑧』には、戦後処理のパリ講和会議に派遣された西園寺公望(全権・元首相・元老)や牧野伸顕(次席全権・元外相・大久保利通次男)がしばしば登場します。西園寺や牧野が感染したという記録は残っていないようです(牧野伸顕『回顧録』中公文庫)。

☆パリ講和会議に出席したウッドロウ・ウィルソン(米国大統領)とロイド・ジョージ(英国首相)はスペイン風邪に感染しました(前掲『感染症の世界史』)。ウィルソン大統領は1919(大正8)年4月3日に発症しています。次のような記述があります。

パリ講和会議とインフルエンザ
 彼(ウイルソン)の声はしわがれはじめ、しだいにひどくなってきた。クレマンソー(仏国首相)もロイド・ジョージもそのことを指摘したという。(午後)6時ころまでには咳もはじまり、あまりにも激しくて、息をするのもままならない様子だったという。やがてウイルソンはほとんど歩けなくなった。体温も39.4度にはね上がり、また、ひどい腹痛をともなう下痢も襲ってきた。(中略)、彼(主治医グレイソン)の下した診断は、「インフルエンザ」であった。
(クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』みすず書房2004年)

☆前掲『史上最悪のインフルエンザ』には、フランス首相のクレマンソーが「カゼ」に苦しめられていたと記述されています。

☆現代では新型コロナウイルスによって英国首相や米国大統領が自主隔離したり、入院を余儀なくされています。「歴史は繰り返す。History repeats itself.」と言わざるを得ない事態です。1度目(職務不能のウイルソン・被弾のクレマンソー・暗殺の原敬)は悲劇、2度目は喜劇と云われます。

☆パリ講和会議に首席全権として出席した西園寺公望(1849~1940)は、若い頃にフランス留学の経験があり、クレマンソーとは旧知の間柄でした。約10年間の留学中(1870~1880)に、西園寺は若き中江兆民(1847~1901)とも交際しています(岩井忠熊『西園寺公望』岩波新書2003年)。

☆1919年の西園寺一行の渡仏(1月)と帰国(8月)については、原敬首相が日記に克明に記述しています。

1919年1月11日
 西園寺、出発して欧州に向ふ(インド洋より)、(中略)3月3日マルセーユ着の予定なり。
1919年8月24日
 講和全権として巴里(パリ)に赴きたる西園寺、其(その)随員数名と共に本日帰朝に付(つき)午後3時過の汽車にて国府津(こうづ)に赴き、閣僚数名と共に出迎へたり。
1919年8月25日
 西園寺、官邸に来訪に付親しく巴里に於ける情況を聞き取りたり。西園寺の内話中、クレマンソー首相と青年時分懇意なりしに因り種々の好都合を得たり。
(前掲『原敬日記⑧』乾元社1950年)

☆パリの日本代表団は全員で60名を超していました。随行者には牧野伸顕(後に内大臣)、近衛文麿(後に首相)、官吏、軍人、医師2名、記者が居り、料理人も連れて行ったそうです(前掲『西園寺公望』)。パリでスペイン・インフルエンザに感染した日本人がいたかどうかは不明です。
(この項続く)


(2020年10月)



《掲示板》


◎11月の行事
11月 3日(火):ブログ更新
11月 10(火):資料解読
11月14日(土):民権林園作業(草刈)
11月15日(日):資料調査
11月23日(火):オンライン企画展(最終日)

◎付設民権林園(露地輪作・有機循環・天日湧水・安心駆除)
☆収穫:甘藷(並作)、生姜(並作)、富有柿(並作)
☆作業:土寄せ(菜花・蓮華草・冬越大根・高菜・春菊・法蓮草)
☆花々:アザミ(紫)、バラ(クィーンエリザベス・桃)(ヴァレリーナ・桃)

◎異常気象・災害・感染症
▼トルコで大地震
▼フランス、イギリス等で再度ロックダウン(約1ヵ月)。
▼東京で1日に500人超、北海道、大阪、愛知県で1日に200人超、千葉県でも1日に100人超。鴨川市の工事現場で初めてクラスター発生。

◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(11月)
□書籍『桂園時代の形成━1900年体制の実像』山川出版社2015年5月10日
□書籍『戦後の記憶、聞き取りレポート(2)仲井富さん』非売品2020年10月8日
□冊子『評論№219』日本経済評論社2020年10月



《感染症と地域の近代》⑥

☆11月に入り、北海道の感染者が急増しています。報道では「寒波」と「夜の街」と「Go To トラベル」が感染急増の原因と云われています。

☆4月以降、100人超の大規模クラスターが各地で続発したのですから、容易ならぬ事態が迫って来ているということでしょう。

☆市民生活者と専門的科学者の連携が切実に求められているように思います。

☆思い付いた造語を列記してみます。「反コロナファースト」(アメリカファーストをもじって)、「反コロナ市専合作」(反侵略国共合作をもじって)、「反ウイルス医療戦線」(反ファッショ人民戦線をもじって)、新型コロナ撲滅官民共闘(藩閥打倒大同団結をもじって)。

 * * * * *

☆今月は『女工哀史』の「スペイン風邪」に関する記述を検証しようと考えています。同書は近代女性史や労働運動史の古典的名著ですが、何故か感染症との関連から検討されたことが無かったように思います。

☆速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店2006年)や石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫2018年)に『女工哀史』への言及は有りません。

☆歴史学研究会編『世界史史料』(岩波書店)や、同会編『日本史史料』に「スペイン風邪」関連の資料が一点も収録されて来なかったのですから不思議です。受験生対象の全国歴史教育研究会編『日本史用語集』(山川出版社)にも「スペイン風邪」は立項されていません。

 * * * * *

☆では、『女工哀史』の記述を考えてみましょう。句読点と(     )は引用者、以下同じ。

第十一 病人、死者の惨虐
 それから此の話はまだ日も浅い四年前のこと(起稿は1923年)、岐阜の日本毛織工場で流行性感冒があったときだ。そばについてゐて怠たらずに手当すれば充分癒(いえ)るものを夕方の看護きりで誰も行かず朝まで放って置く故、病にあずり(あがき)廻って、而(しか)も血みどろになって死んでゐるのであった。(中略)こうして彼女達は「末期の水」も飲ませて貰はずに、恨みを呑んで幽鬼(ゆうき)とならねばならなかった。
(細井和喜蔵『女工哀史』改造社1925年、岩波文庫1954年)

☆同書の起稿は1923(大正12)年ですから、「4年前」は1919(大正8)年頃のことになります。スペイン風邪の第1回流行から第2回流行の時期です(『流行性感冒』東洋文庫)。

☆『女工哀史』には「流行性感冒」に関する『萬朝報』の記事が紹介されています。

第五 労働条件
 而(しか)して流行性感冒の故(ゆえ)を以て又(また)外出禁止を行ふ。然(しか)し感冒は外よりの侵入によるよりも、寧(むしろ)ろ煎餅布団(せんべいぶとん)に原因してか、昨年辺(あたり)一時に三百人からの患者を出した事実がある。斯(か)くて病室は満員となり、一つの寝台に二人も寝かしたとは何といふ非衛生な次第であらう。
 (前掲『女工哀史』、『萬朝報』1922年9月9日)

☆新聞記事の「昨年」は1921(大正10)年です。スペイン風邪の第3回流行期のことになります(前掲『流行性感冒』)。上記のような史実はもっと深く研究されるべきでしょう。

(この項続く)


(2020年11月)