安房地域
  
鴨川の民権教師  
原亀太郎
南房総の民権家たち



KAMETARO  HARA


 

    

房総自由民権資館 (home page)  
いすみ地域 夷隅の豪農自由党員 井上幹(next page)




 
 《 contents 》


 (1) 原亀太郎・民権教師

 (2) 佐久間吉太郎・民権とキリスト

 (3) 人物memo・富松正安

 (4) 加藤淳造・民権医師

 (5) 安田勲・立憲改進党員

 (6) 鈴木トキと荒砥米子・安房の女性民権家

 (7) 安房の民権芸者とジェンダー


 

原(高橋)亀太郎と妻みつ墓碑

 

千葉県鴨川市大山千枚田↓




《原亀太郎・民権教師》
1861(文久元)年8月〜1894(明治27)年9月 


私のふるさと、鴨川市の民権家について紹介してみたい。原亀太郎は、私が自由民権運動の研究を始めた40年前は、まだ幻の民権家であった。『原亀太郎日誌』が発見されて、ようやく彼の生涯の事績が明らかになって来た。

亀太郎は鴨川市の佐久間家で生まれたので、最初の姓名は佐久間亀太郎である。1861(文久元)年8月に誕生した。少年時代に、原家に養子として入籍したので原亀太郎となる。その後、高橋家の養子になったので晩年は高橋亀太郎である。1894(明治27)年9月に他界したから行年33才であった。

原亀太郎については史料が少しずつ発見されてきている。『鴨川市史史料編(二)』には、亀太郎が平塚小学校の教員であった頃の史料が紹介されている。かつて明治大学史の編纂に従事していたH先生から、原亀太郎の姓名が記載された『明治法律学校校内生名簿』を送って戴いたことがある。亀太郎は「明治15年11月」に明治法律学校に入学したことが判明した。

私が『房総史学26号〜30号』に翻刻した『原亀太郎日誌』は、1883(明治16)年の7月21日から書き始められ、翌年の1884(明治17)年10月27日まで書き続けられた。毎日の天候が克明に書き留められ、春夏秋冬の農業生産に関わる行事が記録されている。

日誌には、当時の長狭郡、平郡、朝夷郡、安房郡、天羽郡の青年民権家群像が、嶺岡山系の自然を背景に刻みこまれている。佐久間吉(きち)太郎と佐久間仲(なか)次郎は、長狭郡の兄弟自由党員である。富松正安蔵匿事件で逮捕され弾圧された。不敬罪事件で逮捕された山田嶋吉、民権医者の加藤淳造、立憲改進党系の県会議員安田勲と永井謙蔵等が登場する。

日誌の最も興味深い箇所は、やはり政談演説会及び懇親会の情景と、撃剣の練習場面である。第1級の房州民権史料であるだろう。4年前(1994年)の3月、衆議院憲政記念館に展示されたことがある。

【参考文献】『房総の自由民権』(崙書房1992年)




佐久間吉太郎と妻梅子の墓碑



千葉県鴨川市奈良林

 

《佐久間吉太郎(1858〜1946)・民権とキリスト》

 

鴨川市奈良林の佐久間吉太郎家の墓地は、すべての墓石に十字架が刻まれている。私は何度もここを訪れた。銚子聖公会の元牧師松本さんを案内したこともある。

佐久間吉太郎は1858(安政5)年の2月に豪農佐久間吉右衛門の長男として生まれた。父は戸長であった。吉太郎は少年時代に長尾藩の藩校で学び、18歳のときに小学校の教員となった。

しばらく教職にあるが、自由党が結成された1881(明治14)年の秋、鴨川地域に民権結社「浩鳴社」を設立し、原亀太郎等と共にしばしば演説会を開催した。民権結社「浩鳴社」設立の趣旨を紹介してみよう。

社会ノ公益ヲ図ランニハ、一人ノ力ニシテ能ク及ブトコロ非ズ、必ズ一致結合シテ有無ヲ通ゼザル可カラズ、誠ニ志ヲ同クスル者一致結合シテ自由ヲ貴ビ、権利ヲ重ジ(後略)

人々が力を合わせ、自由と権利を求めるべき時代が到来したことを告げているのである。

1883(明治16)年6月、佐久間吉太郎は自由党に入党した。弟の佐久間中次郎も入党したので、兄弟党員であった。この頃2人は、党の機関紙である『自由新聞』を購読していた。熱心に各地の動向と民権思想を学習したのである。

翌1884(明治17)年の9月、茨城県において加波山事件がおこる。中心人物の一人富松正安は、旧知の佐久間吉太郎をたよって、鴨川地域へ逃れて来た。吉太郎たちは富松を匿ったため、蔵匿罪によって5カ月間投獄された。獄中では次のような短歌を残した。

冬の夜や 獄屋に洩るる 月影も 我屋を照す ものと思へば

出獄後数年、佐久間吉太郎はキリスト教会の牧師となる。千葉キリスト教会、佐倉キリスト教会、九十九里キリスト教会、そして銚子聖公会等に足跡が残っている。

1933(昭和8)年には鴨川聖公会を創設し、永眠したのは第2次世界大戦後の1946(昭和21)年8月のことであった。88歳の長寿で、「自由民権」、「大正デモクラシー」、「戦後民主主義」を生き抜いた鴨川の民権家である。




佐久間吉太郎の「監獄改良論」

私は、鴨川市の民権家佐久間吉太郎については、これまで論考をいくつか発表して来た。『房総の自由民権』(崙書房、1992年)では何回も言及し、あとがきでは佐久間吉太郎の短歌を二首引用した。

よく「貴方は民権家佐久間吉太郎の子孫ですか」と聞かれることがある。そういうときには必ず「隣村ですが、直接の先祖ではありません」と答えることにしている。墓は鴨川市にある。しかし吉太郎の直系の御子孫は現在、東京都内在住である。

最近、私は自由民権運動の第三の山場である三大事件建白運動についての資料を読むことが多い。今春は1888(明治21)年の『東海新報』に目を通した。『東海新報』は、弁護士の板倉中が創刊した民権派の政治新聞である。『東海新報』紙上で発見した佐久間吉太郎に関する新史料を、今回は紹介することにする。国会開設前夜の時期の佐久間吉太郎の考えがわかる、貴重な史料と言えるだろう。

 

〔史料〕 『東海新報』1889年7月30日

   監獄改良論

           安房  佐久間吉太郎

凡監獄の主義に二あり、曰懲戒、曰感化是なり、而して甲ハ専ら囚徒の身体を苦め以て其罪を悔さしむるにあり、乙ハ専ら教誨を加へて以て其囚徒の心を善良に感化せしむるにあり、然り而して其効力に至りてハ、則其人民進度の如何に由りて多少の異ある可しと雖も、之を概するに、甲は乙に及ばざるなり、故に欧米諸国に於ても初めは皆甲の主義を重用したるも、昨今ハ漸く改良を加へて一般に乙の主義を重じ、之を用ゆるに至れり、現今我邦の監獄を見るに、旧幕の獄法よりは大に其面目を改めたりと雖も、猶懲戒の主義専らに行れて、何れの監獄に於ても其囚徒を叱咤苦役して、只其工業を進むるを以て主眼とせらるゝものゝ如くにして、今日は已に各監獄互に其工業の進歩を競ひ優劣を争ふの傾きあるに至れり、嗚呼何ぞ夫れ如此一方に偏するの甚しきや、誠に長歎の至りに堪ざるなり、此故に感化の事は殆ど監獄の仕事に非ざるが如く思惟して未た曾て之を重せず只僅に之を仏教の僧徒に托して、日曜日の午后に於て既決の囚徒に該宗の教海を聴かしむるに過ぎざるのみ、然れとも今日常人の心をすら感化せしむるの力なき仏教が、奚ぞ彼の悪念の強き囚徒の心を感化することを得べきや、其功を見る能ざるも固より怪むに足らざるなり、今試みに各監獄に就て其囚徒を視るに、二犯三犯の者其数の半に過ぐ、是則懲戒の義の其効少なきと仏教の力なきとを証するに足るものに非ずや、夫れ我邦今日の囚徒にして斯の如く数犯者の多きは、実に国家の病患にして国民たる者の大に憂ふべき一大事なり、然るに我邦の人士、率ね懲戒主義の習慣に蔽れて猶未た感化の主義を貴重せず、随て囚徒を愍み国家を憂へて以て彼の犯罪者を減却することに鋭意熱心する真実なる仁愛者の起らさるれは、誠に遺憾に堪ざるなり

故に予輩は今我邦の監獄に向て熱望する所ハ、大に感化主義の実行せられんことと、基督教の入るを許されんこと是なり、而して其方法ハ、毎日曜日と水曜日の午后とを以て感化の日と定め、此日を以て一般に工役を休め、而して世人の親く視る所聴く所の実に感化力強大なる基督教を以て教誨せしむ可し、果して然らバ、則一ヶ年を出ずして必ず其著しき功を奏し、囚徒は勿論、国家に対し大なる利益あることは予輩今神と人との前に予言して憚からざる処なり

然るに之に反対する二三の論者あり、云く、説の如くせば一週一日半の休工ある故に工銭少く囚徒喜ばざるなりと、又云く、キリスト教を以て感化せば或は其功ある可しと雖も、是迄許せし仏教徒に対し気の毒なる故に之を為すこと能ハずと、又云く、猶欧米に行るゝ耶蘇教を欧米の監獄に入れて其囚徒を感化するが如く、日本に行るゝ仏教を日本の監獄に入れて其囚徒を感化せば則可ならずやと、予輩今此等の論者に答て云んとす、仮令工銭少く囚徒喜ばざるも、監獄は固と工銭を取らしむるの目的にあらず、囚徒を喜ばしむるの義にあらず、唯其囚徒をして善良に感化せしむるにあることなれバ、断乎として之を行ふに何の妨げか之れあらん、又是迄許せし仏教徒に対し気の毒なるが故にキリスト教を入るゝ事能はずと云ふは、之れ其本末を誤り軽重を弁ぜざる甚しき言と云ハざるを得ず、何となれバ其感化せしめんとする第一の目的なる多数の囚徒の事よりも、勝りて仏教徒に対する人情をのみ重じて之を為さざればなり、其三に欧米に行るゝ耶蘇教を欧米の監獄に入れて其囚徒を感化するが如く、日本に行るゝ仏教を日本の監獄に入れて感化せバ則可ならずやと云ふは、甚だ皮想の論なり、何となれば其教力の有無をも真理の如何をも問ず、唯其行るゝ日の深浅と習慣とに拘泥して、更に其実益の如何をも囚徒の将来をも国家のことをも顧みざる論にして、畢竟囚徒を感化せしむることと監獄を改良することとを妨ぐるに過ざるなり

夫以上の論者ハ、皆予輩が説を妨ぐるの力なきこと明なり、然れとも予輩が望む所の感化の主義を今俄かに行ふこと能ずんば、即囚徒をして暫く基仏両教の教を聴かしめ、而して后其方針を定むるも又可なり、予輩は速に感化主義の我国の監獄に行れんことを望んで止まざるなり、猶ほ其理由法方等は后日詳論する処ある可し

 



【人物 memo】
富松正安 MASAYASU TOMIMATU
1849(嘉永2)年〜1886(明治19)年

★茨城県下館の士族。廃藩置県後小学校教員となり、1880(明治13)年教職を辞して国会開設請願運動に参加した。

★1881(明治14)年10月、自由党の創立にあたって入党し、やがて急進派の一員となった。

★1884(明治17)年8月、下館に壮士養成所「有為館」を開設して館長となり、同年9月加波山事件の蜂起に参加した。

★事件後一時潜伏したが、10月千葉県で逮捕され、死刑に処された。

★参考資料『世界大百科事典』CD-ROM(日立デジタル平凡社)




加藤淳造顕彰碑

 

 千葉県安房郡富山町

天(てん)神社の境内にある自然石の顕彰碑
碑文は、同地出身の初期社会主義者であった
座間・止水(ざま・しすい)が書いています
参道には房州でも有数の楠の大樹があります

《忘れられた「普選」と「民権」の「顕彰碑」》

 

私はながい間、房総の自由民権運動は人々に忘れられたものと考えて来た。忘れられた民主主義運動であったと思って来た。しかし、そのようなことは決してなく、千葉県の各地に民権家の「顕彰碑」が建っている事に次第に気がついた。たとえば、比較的有名なものには、千葉市の千葉寺に桜井静の記念碑がある。他にも結構あることに、史料調査の過程で気がついた。私たちの身の回りには、民権家の「顕彰碑」が散在しているのである。

安房郡富山町の天神社前には、巨大な楠が二本繁っている。「夫婦楠」と呼ばれ、幹周4.35メートルもある。樹齢は1000年程と推定されている。安房郡内には、和田町の上三原小学校の隣にも楠の巨木がある。明治の自由党員、加藤淳造の顕彰碑は、天神社の社前にある。高さ2メートル、横1.5メートル。厚さ15センチの石碑である。

加藤淳造家は、祖父(霞石)の代から医院を営んでいた。淳造も若い頃は医学を学んでいる。千葉県では、医師で自由党員になった人物は、私の知る限り他に4人いる。夷隅郡の青柳直道、中村兼吉、香取郡の松浦千里、朝夷郡の石井三省である。松浦家は現在も病院を経営している。加藤家に初めて史料調査に行ったのは、銚子高校に赴任して間もない頃のことであった。私の生家からは加藤家まで、車で20分くらいしかかからない。その後は何度も加藤家を訪問した。しばらく資料をお借りしていた時期もあり、当主の加藤昭夫氏にはいつも便宜をはかっていただいている。有り難いことで感謝の他はない。

加藤淳造は1852(嘉永5)年3月に生まれた。加波山事件の富松正安を匿い、投獄されたりする。第二回衆議院総選挙に立候補して当選する。安房郡医会会頭や、千葉県医会副会頭を歴任し、1914(大正3)年10月に死去した。淳造の墓碑は、加藤家の裏山の山中にある。

加藤家文書の中には、植木枝盛、大井憲太郎、星亨、河野広中、石坂昌孝の書簡が残存している。私はそれらの書簡をほとんど全部読んだが、大変貴重な史料であると思っている。植木枝盛の書簡は、岩波書店の『植木枝盛集』の中に収録されている。

「加藤先生」碑の撰文は、座間止水である。この人物は加藤と同じ安房郡富山町出身で、『東京毎日新聞』の記者であった。社会主義者であったようだが、碑文にあるように座間止水は、普通選挙制度成立の歴史的里程で、加藤淳造と自由民権運動を再評価しているのである。

普通選挙法と同時に、悪法の治安維持法が成立した事はよく知られている。その後の歴史は、侵略戦争への道であり、戦争反対の声は封殺されてしまった。そして、今年(1995年)は戦後50年である。

 

〔史料〕 加藤先生碑

先生名ハ淳造 平群村ノ名家 加藤玄章国手ノ長子トシテ生マレ 代々刀圭ヲ以テ業トス 祖父霞石翁ハ掬靄山房ト称シ 詩名ヲ天下ニ駛セ 梁川星巌 大槻磐溪ノ諸大家ト交友アリ 先生弱冠ニシテ父祖ノ業ヲ嗣ギ 学成リ千葉医学校ノ助教授トナル 時恰モ憲政樹立ノ創始期ニ際シ 自由民権ノ主張 全国ニ高鳴ル 先生ハ万斛ノ経綸ヲ胸底ニ蔵シ 此非常時ヲ坐視スルニ忍ビズ 医術ヲ以テ万人苦悩ノ病原ヲ治シ 政道ヲ以テ自由民権ノ伸長ヲ図ラント 蹶然起ツテ板垣退助 大井憲太郎 新井省吾ノ諸政客ト訂盟シ 関東自由党ヲ創立シ党界ノ雄鎮トナル 時ニ反動ノ大鉄槌 民権自由ノ頭上ニ墜下シ 先生亦タ数次鉄窓ノ痛苦ヲ嘗ムルモ 毅然トシテ其ノ節ヲ変ヘズ 遂ニ国会ノ開設ヲ見ルニ至ル 我国憲政促進ノ功 先生ノ力ニ負フ処多シ 後選バレテ国会 議員トナリ 国政代議ノ重責ヲ荷フ 先生ハ情熱的愛国者トシテ 民衆的政治家トシテ 常ニ政界革新ノ第一線ニ立チ 身ヲ以テ民衆ノ指導ニ終始ス 先生逝イテ幾星霜 今茲ニ普選ノ実施ヲ視ル 吾等後進 此機ニ際シ 偉勲ト高風ヲ慕フノ念 愈々切ナルモノアリ 石ニ刻シテ功績ヲ永ヘニ伝フ

    題  字 立憲政友会総裁男爵田中義一閣下

    撰文並書 東京毎日新聞編輯長座間止水先生

    大正十五年一月十七日建之




《加藤淳造・ 安房の民権医者》

 


医師で自由党に加盟した人物は、千葉県に4名いた。平郡の加藤淳造、夷隅郡の中村兼吉青柳直道、香取郡の松浦千里である。その他に、最初立憲改進党に加盟し、後に立憲自由党に転じた印旛郡佐倉町(現佐倉市)の浜野昇のような人物もいる。平郡の奥澤軒中はどの政党にも所属しない民権派の医師であった。

加藤淳造は1852年(嘉永5)年3月平郡平久里中村(現安房郡富山町)で生まれた。祖父の加藤霞石や父の加藤玄章も高名な医者であった。淳造も若い頃は医学を熱心に学んだ。彼がいつ頃から民権思想に傾いて行ったかははっきりしていない。郷里で医院を開業したのは1880(明治13)年であり、村内に民権結社資友会を組織したのは翌1881(明治14)年11月の頃であった。この頃からしばしば演説会を開催し、政治的な活動を開始したと考えられる。

加藤淳造の写真は、関戸覚蔵編『東陲民権史』(集英堂1903年)に載っている。和服姿なので、若きインテリゲンチヤという風貌ではなく、壮士然としている。どちらかと言えば、侠客のような印象さえ与える。1884(明治17)年11月、加藤淳造は加波山事件の中心人物の富松正安蔵匿事件にかかわり投獄される。獄中の漢詩を一首紹介しておこう。

  
鉄檻繋留五尺身(鉄檻に五尺の身を繋留され
  偶然獲罪是前因(偶然罪を獲る是れ前因か
  偏憐深夜猪山月(偏に憐れむ深夜猪山の月
  照到尊王愛国人(尊王愛国の人に到り照す

加藤淳造は1889(明治22)年6月、千葉県会議員に選出される。3年後の1892(明治25)年2月の第2回衆議院総選挙に立候補し当選した。そして1914(大正3)年10月に62才で死去した。安房郡富山町の天神社前に、巨石の記念碑が建てられている。



加藤淳造の漢詩(加藤家文書)



冤獄にて囚中に此の身を繋がる
図らざりき罪を得るも亦因縁

仰ぎ観る猪鼻山頭の月
・・・・
 脳殺さる忠君愛国の神(ココロ)

・・・
千葉獄中作
・・・・・・・・栗邨藤淳





安田勲墓碑
鴨川市大山不動尊南側斜面




《安田勲・安房の立憲改進党員》


房州の立憲改進党員について書いてみようと思う。立憲改進党は1882(明治15)年の4月に結成された。党首は佐賀県出身の大隈重信である。最近の研究によると1885(明治18)年2月の頃、立憲改進党の党員数は全国で1860名(三島通庸文書)であり、千葉県の党員数は45名であったからそれほど多くはない。ちなみに自由党の方は1884(明治17)年の名簿によると全国でおよそ2240名程で、千葉県の自由党員は118名であったからかなり多い。

安田勲は1853(嘉永6)年長狭郡平塚村(現鴨川市)で生まれた。上京して福沢諭吉の慶応義塾で学んだ。鴨川市では当時永井謙蔵宮崎覚が慶応義塾で学んでいる。卒業後、安田勲は創立期の千葉中学(現千葉高校)や、千葉師範学校(現千葉大学)で英語の教鞭を取った。そして教職を辞して故郷に戻り、1882(明治15)年県会議員の選挙に立候補する。県議時代に、立憲改進党のイデオローグであった小野梓らを招き時々演説会を開催した。当時の第一級の理論家の話を聞き、討論を繰り返す中で、長狭地域の青年たちは思想的に成長していったと私は考えている。

安田は1890(明治23)年7月の第1回衆議院総選挙に立候補する。競争相手は旧自由党員の佐久間吉太郎であった。安田家と佐久間家は歩いて1時間とかからない。選挙の結果は安田勲の勝利であった。佐久間吉太郎についてはすでに紹介したように、その後キリスト教の牧師に転身する。この時の千葉県の当選者は九名で、立憲改進党系の当選者は安田勲一人であった。

第2回総選挙(1892年)では、安田勲は加藤淳造に敗れる。その後第3回総選挙(1894年)、第7回総選挙(1902年)、第8回総選挙(1903年)、第9回総選挙(1904年・補欠当選)、第10回総選挙(1908年)において安田勲は衆議院議員に当選している。1916(大正5)年の6月に安田勲は、東京早稲田の大隈重信邸を出たところで倒れそのまま他界してしまった。享年62才であった。

◎安田勲の生涯(年譜)

【青年時代】
1853(嘉 6)年・・・6月18日、安田勲誕生、父穂並、母ゆう(戸籍)
1873(明 6)年・・・1月、慶應義塾入学(慶入)
                   11月2日、長女誕生(戸籍)
1875(明 8)年・・・2月13日、父の栄存(穂並)他界
1876(明 9)年・・・慶應義塾卒業(房叢)                                                       
            
大山学校開校、生徒20人(文年)
1877(明10)年・・・12月、第2大区代議人(千議)
1878(明11)年・・・5月8日、「従軍戦死十四人碑」大山不動尊に設置(従碑)
                   8月20日、結婚、河田すや(戸籍)
                   10月、千葉師範学校英語教師(千師)
1879(明12)年・・・6月30日、長男誕生(戸籍)
                   11月、重城保宛書簡(重日)
1880(明13)年・・・11月、千葉師範学校退職(千師)
1882(明15)年・・・1月15日、二女誕生(戸籍)

【県会議員時代】
1882(明15)年・・・6月、県会議員選挙当選(千議・列伝)
                    11月、小野梓と房州遊説(留日)
1883(明16)年・・・4月、県会議員の幹義郎と演説会の相談(詠日)
                        2月、再度小野梓と房州遊説(留日・郵報)
1884(明17)年・・・2月、島田三郎と房州遊説(原日・東横)                      
            6月、県会議員選挙再選→1890年まで連続当選(千議)

            7月14日、県議会常置委員に選出(詠日)
                        7月25日、二男正男誕生、1930年衆議院議員(戸籍・大あ)
1887(明20)年・・・1月1日、三男誕生(戸籍)                         
            5月23日、畜産集談会出品(安紀)

1888(明21)年・・・12月、山武郡自治制講義会で演説(東新)
1889(明22)年・・・4月、大山村成立(千議)
            10月、「安田勲君之伝」所載『房叢名士叢伝』刊(房叢)
            11月、第2代大山村長就任(千議)
1890(明23)年・・・5月、『衆議院議員候補者列伝第二編』刊
            6月、安房鉄道馬車敷設測量認可(千告・大あ)

【衆議院議員時代】
1890(明23)年・・・7月、第1回総選挙当選、小選挙区制(一覧・千議)
1891(明24)年・・・2月、歳出削減(明治憲法67条)の政府解釈に反対(郵報)
            10月10日、離婚(戸籍)
1892(明25)年・・・2月、第2回総選挙落選、小選挙区制(一覧・千議)
1893(明26)年・・・11月、月田中正造と房総遊説(立党・田全)
            11月、立憲改進党院外運動委員就任(立党)
1894(明27)年・・・3月、第3回総選挙当選、小選挙区制(一覧・千議)
1898(明31)年・・・7月12日、再婚、長倉せ舞(戸籍)、勢武(墓碑)
            8月、第6回総選挙落選、小選挙区制(一覧・千議)
1900(明33)年・・・12月22日再々婚、増田喜久(戸籍)
1902(明35)年・・・8月、第7回総選挙当選、大選挙区制(一覧・千議)
1903(明36)年・・・1月、加藤淳造宛書簡(加文)
            3月、第8回総選挙当選、大選挙区制(一覧・千議)

                   4月20日、三女誕生(戸籍)
1904(明37)年・・・3月、第9回総選挙次点、大選挙区制(一覧・千議)
1905(明38)年・・・12月、繰上当選(千議)
1908(明41)年・・・4月、加藤淳造宛書簡(加文)     
                 5月、第10回総選挙当選、大選挙区制(一覧・千議)
1909(明42)年・・・7月3日、日糖疑獄事件地裁判決(法新・東朝・読売・敬日)
1916(大 5)年・・・6月9日、安田勲他界、行年62歳(戸籍)
1920(大 9)年・・・8月12、日母ゆう他界(墓誌)

【正男の時代】
1930(昭 5)年・・・2月正男、第17回総選挙当選、中選挙区制(千議)
1932(昭 7)年・・・2月正男、第18回総選挙落選、中選挙区制(千議)
1946(昭21)年・・・6月15日、正夫他界、行年61歳(墓誌)
1949(昭24)年・・・正男の妻まさゑ他界(墓誌)

※典拠資料略称一覧
・戸籍(安田家戸籍謄本)・慶入(慶應義塾入社帳)・房叢(房叢名士叢伝前編)・文年(文部省年報)・千議(千葉県議会史)・従碑(従軍戦死十四人碑)・千師(千葉師範学校創立60周年記念誌)・重日(重城保日記)・列伝(衆議院議員候補者列伝)・留日(留客斎日記)・詠日(詠帰堂日記)・郵報(郵便報知新聞)・原日(原亀太郎日誌)・東横(東京横浜毎日新聞)・大あ(大山のあゆみ)・安紀(安房国畜産集談会紀事)・東新(東海新報)・千告(千葉県告示)・一覧(衆議院議員総選挙一覧)・立党(立憲改進党々報)・田全(田中正造全集)・加文(加藤家文書)・法新(法律新聞)・東朝(東京朝日新聞)・敬日(原敬日記)・読売(読売新聞)





荒砥米子の碑


 
 鋸南町奥山の県道沿いに建立されています
この石碑は車で通るとすぐにわかります



《鈴木トキと荒砥米子 安房の女性民権家》


天の半分は女性が支えている。しかし自由民権運動の半分を女流民権家が支えていたとは言えない。女性史研究の先駆者である高群逸枝は『女性の歴史』(講談社文庫)において、「民権運動では才学ある少数の美少女や、民権老婆、民権芸者の類があらわれたにすぎない」と書き、フランス革命期の女性と比較して、「洗濯婦や女職人や失業女工や貧困主婦や農婦等によるパリ女隊の女権宣言的旗上げにくらべれば、維新や民権期における我が未熟な女性史」と鋭敏に指摘をしている。

千葉県にも女性民権家はいた。民権芸者のような女性もいた。次のような新聞史料がある。「千葉県安房郡那古村の芸妓鈴木トキは自由党に加盟いたしますとの書面を此程同所の自由党事務所へ申し込みたりとのこと。又、同地に建設する故忍足佐内氏(同地の義人)の墓碑費額の内へも同人より金一円寄付したり」。(朝野新聞1884年3月1日) しかし彼女の入党は認められなかったようで、同年の自由党員名簿には女性の名前は見あたらない。鈴木トキのその後の人生は不明であるが、義民忍足佐内の碑は現在富浦町福沢に建てられている。

鋸南町の奥山では、1881(明治14)年1月に民権結社「改進社」が結成された。社長は1879(明治12)年に千葉師範学校を卒業した荒砥通太郎である。同地には道路沿いに民権家の妻の碑がある。「追懐荒砥米子の碑」と刻まれている。裏面には米子の生涯の事績が記されている。貴重な碑文なので紹介する。

「恩師名は米子文久元年甲州宝村嘉畑森島家に生れ来りて荒砥氏に嫁す、明治十七年氏が養蚕牧畜を以て我房州の二大副産たる議を唱へ蚕業伝習生を群馬埼玉地方へ派するに当り之れが取締たり、(中略)師は天資蚕糸の業に精しく其教を受くる者百有余相結んで扶桑組をす、明治三十四年偶々病を以て終に身まかりぬ、鳴呼悼哉行年四十一(後略)」。この碑は教えを受けた女性たちによって1916(大正5)年に建てられた。



《安房の民権芸者とジェンダー》

★芸妓の自由党入党申込み

 自由民権運動とジェンダー(性差)について、最近読んだり考えていることを少し述べてみたい。
 1884(明治17)年の『自由新聞』と『朝野新聞』に、安房地方の芸者が隣村の百姓一揆の指導者の顕彰碑を建設するために寄付金を差し出し、さらに板垣退助総理の自由党に入党申し込みをしたという記事が報道されている。一部分を紹介する。
 千葉県安房郡那古村の芸妓鈴木トキは自由党に加盟いたします宜しくとの書面を此程同所の自由党事務所へ申込みたりとのこと。又同地に建設する故忍足佐内氏(同地の義人)の墓碑費額の内へも同人より金一円寄附したりとぞ。(『朝野新聞』1884年3月1日)
 芸妓は辞書では「ゲイギ」と読んでいるが、ゲイコ」とルビをふる場合もあった。鈴木トキという底点の女性の生涯については、今のところ詳しいことはわかっていない。

★未熟な女性史の姿

『自由新聞』や『朝野新聞』に自由党加盟申し込みをしたと報道されているのだから、このような女性(たち)を自由民権運動参加者とみなしてもよいであろう。
 高群逸枝の『女性の歴史』下(講談社文庫、1972年)は、長州や薩摩出身の藩閥政治家の正妻に芸者出身の女性が多いことを指摘し、その必然性についても考察している。こういう視点は、高群史学の優れた面であると私は感じている。
 民権運動では才学ある少数の美少女や、民権老婆、民権芸者の類があらわれたにすぎない。洗濯婦や女職人や失業女工や貧困主婦や農婦等によるパリ女隊の「女権宣言」的旗上げにくらべれば、維新や民権期におけるわが未熟な女性史の姿(後略)。(同書232頁)
 千葉県内では、これまで私が調査した範囲では、民権家の妻で房州の養蚕事業に貢献した女性、初期の千葉県議会を傍聴した女性、国会開設の請願に取り組んだ女性、大阪事件の弁護士板倉中(なかば) (千葉県白子町出身)の妻で景山英の救援活動を行なった女性等が知られている。
 安房の民権芸者鈴木トキとフランス革命のテロワーニュ・ド・メリクールを比較してみたい。私が初めてテロワーニュの名前を知ったのは、『フランス革命期の女たち』上下 (岩波新書、1973年)を読んだときである。この新書によって、イギリスで高級コールガールを経験した後、1789年の革命に積極的に参加した女性がいたことを知った。

★発狂したテロワーニュ

 同書はソヴィエト時代の女性作家ガリーナ・セレブリャコワの、24歳のときの処女作である。実証的に少し問題があるような気もしたので、その後、ほかの研究書にあたって、テロワーニュに関する史料を確認しなければならないと考えた。
 ミシュレの『大革命の女たち』(『世界の人間像』26、角川書店、1966年)を読んだ。ミシュレの著書では、桑原武夫他訳の『フランス革命史』(中央公論社、1968年)・も読んだ。訳者が指摘しているようにA・ミシュレは革命期における「性愛」について実に鋭敏に切り込んでいる。現代風に言えば、フランス革命における「ジェンダー」の切り口ということになるのかもしれない。
 しかし私が読んだ『大革命の女たち』は抄訳であったので、いくぶん不安が残った。次に、若い世代の研究者である安達正勝氏の『フランス革命と四人の女』(新潮選書、1986年)を読み、ようやくテロワーニュについての実証的研究水準に納得がいった。他に池田理代子氏の『フランス革命の女たち』(新潮社とんぼの本、1985年)で、テロワーニュの若い頃や年老いてからの肖像画を見ることができた。
 深く印象に残ったのは、やはりミシュレの次のような歴史叙述である。テロワーニュは或る事件がきっかけで、ジャコバン党グループによって発狂させられ施設に入院した。
 1793から1817年にいたるまで、この長い24年間のあいだ(彼女の生涯のまさに半分である!)、凶暴に狂いまわり、生まれたばかりのように、泣き叫んでいた。この勇敢にして魅力のある女性が、獣よりもひどい境涯に落ち、牢獄の格子を叩き、自分の肉体をひきちぎり、(中略)光景は心をいたましめるものであった。(前掲『大革命の女たち』39頁)
 日本の明治維新史や自由民権運動史では、このような歴史叙述に出会ったことはない。昨年(1996年)は上野千鶴子女史の新稿「国民国家とジェンダー」(『現代思想』1996年10月号)を読んでみた。西川長夫氏の「国民国家」概念を援用して、「女性の国民化」「フェミニズムと戦争責任」「従軍慰安婦問題」などを論じている。キーワードの「国民化」に対する「抵抗」概念がはっきりしないが、安房の民権芸者について考えるには参考になると思った。





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