山武地域
憤起慷慨の民権家
 桜井静
豪農民権家の生涯を追いかける


SHIZUKA  SAKURAI


   

房総自由民権資料館(home page)click
香取地域 香取の商人自由党員 石田直吉(next page)





 《 contents 》

  (1)桜井静記念碑

  (2)肖像写真

  (3)桜井静の生涯・一波が万波を呼ぶ

  (4)衆議院議員当選証書

  (5)人物memo・田中正造

  (6)山武と印旛の民権家(準備中)







 桜井静記念碑


 
  千葉市の千葉寺






桜井静の生涯
1857(安政4)年~1905(明治38)年
  一波が万波を呼ぶ



《国会開設懇請協議案送付》



★桜井は1857(安政4)年の10月10日に,香取郡多古町の吉川家で誕生した。1857年はインドにおいて、イギリスの植民地支配に抵抗するインド大反乱(セポイの大乱)がおこり、中国では清国とイギリスのアロー戦争(第2次アへン戦争)の最中であった。翌年の1858(安政5)年6月には「日米修好通商条約」が結ばれ、幕府によって尊皇攘夷派に対する安政の大獄の弾圧が行われている。吉田松陰や橋本左内が処刑された。アジアの歴史の激動期であり、明治維新まであと10年であった。1857年に生まれた同年齢の民権家には、高知県出身の植木枝盛がいる。桜井静の生涯と、著名な民権家の生涯を比較検討してみることも必要である。

★1876(明治9)年、桜井(吉川)静は、山武郡芝山町の桜井家に婿養子として入籍した。桜井静が歴史の表舞台に登場するのは、1879年(明治12)年の6月のことである。全国各地の県会議員に「国会開設懇請協議案」を送布した。「国会開設懇請協議案」の主張は次のようなものである。1879年に地方の県議会が開設された。しかしその権限は狭く、議決事項は制限されている。人民の参政権と収税法を審議し、人民の福利を増進する県議会の権限は狭い。国会を開設しなければ真の人民の利益を得ることはできないというものである。地方の近代的自治権の確立は、近代的な立憲政体を樹立することによって初めて実現されるという考え方であった。具体的な行動提起も、(1)全国の県会議員が力を合わせること、(2)東京で大会を開催し国会設立を決議すること、(3)政府から国会開設の認可を得ること、以上の3点であった。

★全国に送布された印刷物はB4サイズのビラである。7月24日の朝野新聞等に全文が紹介され、全国各地で大きな反響があった。豪農民権(県議路線とも呼ぱれている)の突破口となった事件である。桜井提案を受けて、岩手県・秋田県・新潟県・長野県・岡山県・広島県などで具体的な行動が始まった。岩手県では県会議長上田農夫が回答を寄せ、賛同の意志を表明した。新潟県では、山際七司が桜井提案を契機に県下各地での民権運動に乗り出した。また長野県では9月15日に松沢求策が、松本新聞に「主意を了知せられ、(中略)実際に之を挙行すべきなり」という社説を掲げた。岡山県では県議会において、桜井提案を満場一致で採択している。桜草静はこの年まだ21歳の青年である。高知県の植木枝盛は、同年3月大阪において開催された愛国社第2回大会に出席している。4月には「民権自由論」を出版し、その名が各地に知られるようになって来ていた。



《房総の憲法草案》



「大日本国会法草案」は全部で51カ条からなる。桜井静が1879年の年末に起草した憲法草案である。現在までに発見された千葉県の自由民権運動憲法草案としては唯一(高橋喜惣治草案は未発見)のものである。全文は家永三郎他編『明治前期の憲法構想』(福村出版1967年)に紹介されている。

国会の構想は上院と下院とからなる。上院は38名で,「国事文学もしくは技術に勉励して世にその名を知られたる有名抜群の秀士」と規定されている。身分制を否定し、能力を第一とした基準となっている。下院議員の資格は,「国租10円以上を納むる者、25歳以上の者、戸主の者」という条件を定めている。この下院の資格規定では、地方の豪農層しか下院議員になることはできなかったろう。人数は「府県毎2員宛選挙す」とあるので、約90名である。桜井草案は二院制の国会構想であった。

立法権はどのように規定されているかというと、「大日本帝国立法権は,皇帝陛下及び上院下院合同して之を行う」とある。「君民共治」の憲法草案である。天皇の権限を規定した条項には,「皇帝陛下は委員に任じて法律議案又はその他の起議を下院に付す」とある。しかし天皇に絶対的権力を認めているわけではない。「両院は皇帝陛下の起議を改廃するの権を有す」とあり、この条項は民衆(議会)の抵抗権に関する桜井草案の独特の規定である。

「大日本国会法草案」の特色としては、(1)豪農による民権運動を前進させるために創り出された。(2)県会議員層に基盤を置いている。(3)民衆の抵抗権に関する条項がある。(4)非常に早い時期に発表されている(植木枝盛の憲法草案より早い)。桜井静の憲法草案については、条項が限られており、憲法としては不完全なものであるという評価がある。しかし本格的な憲法制定にむけた国会の構想であり、「憲法制定議会」のためのものであると評価した研究者もいる.

憲法草案を起草後桜井静は、国会開設のための政治組織である地方連合会を創設しようと着々と準備を進めつつあった。そのとき桜井にとってまたとない機会が訪れようとしていた。1880(明治13)年3月、東京において地方官会議が開かれることになったのである.地方官会議を傍聴しようと上京して来る各地方の府県会議員を組織化するために、桜井は1通の書面を用意した。表には「地方連合会創立主意書」の文面を印刷し、裏には「地方連合会創立概則」の9カ条を印刷した。同年5月桜井は、東京で地方連合会を創立する予定であったのだが、官憲の弾圧によって組織は解散に追い込まれてしまうことになる。桜井静にとって人生の最初の挫折であった。


桜井静肖像写真





桜井静の「国会懇請草案」(房総の民権憲法)
大日本国会法認可ノ為メ懇請意見編纂ノ草案

  第一欵 国会ノ構置

第一條 大日本国会ハ日本国民ヲ代理ス

第二條 大日本国会ハ上院下院ヲ以テ成ル

第三條 上院ハ議員三十八名ヲ以テ成ル

第四條 上院ノ議員ハ皇帝陛下ノ特任トス

第五條 下院ノ議員ハ帝国内一府県毎二員宛選挙法ニ依テ日本国人之ヲ選挙ス

第六條 上下両院ノ議員ニ兼任スルコトヲ得ズ

  第二欵 上 院

第七條 上院ノ議員ハ無期ニシテ常任トス

第八條 上院ノ議長副議長ハ皇帝陛下ノ特任トス

第九條 皇帝陛下ハ国事文学若クハ技術ニ勉励シテ世ニ其名ヲ知ラレタル有名抜群ノ秀士ヲ上院ノ議官ニ任 ズ

第十條 逆罪及ビ国ノ安寧ヲ害スル罪犯アル時又ハ下院ヨリ諸執政官吏ヲ諭告シタル時上院ハ之ヲ審断スル ノ権ヲ有ス

第十一條 上院ニ於テ決定スベキ特任ハ左ノ如シ

 第一 下院ニ於テ起創スベキ議案及ビ下院ニ於テ為シタル決定ノ事

 第二 帝国ノ諸法律ニ於テ其法律ヲ施行スルニ付テノ條規並ニ施行スル為メニ必要ナル行政ノ規則及ビ行  政ノ廃立ノ事

 第三 前條既設ノ者ニ付テ現ハルル所ノ不全備ノコト

 第四 執政官吏ノ責任ニ関シ審断ヲ行ウコト

 第五 法律ニ依リ下院ヲ召サルル時ハ下院ヲ徴聚スルコト

  第三欵 下 院

第十二條 下院ノ議員ハ五歳間其職ニ任ズ 

  但(シ)永久(ニ)之ニ重選セラルルコトヲ得ベシ 

第十三條 下院ノ議長副議長ハ撰定ノ上奏上スル者トス

第十四條 下院ノ議員ニ選挙セラルルニハ日本国民ニシテ左ノ項目ニ触レザル者トス

 第一 国租十円以上ヲ納ムル者

 第二 二十五歳以上ノ者

 第三 戸主ノ者(他ノ傭役者ニアラザルモノ)

 第四 法律ニ支障ナキ者

第十五條 下院ハ租税、国需、国債、點徴、ノ件ニ係リ起草ノ権ヲ専有ス 

第十六條 左ノ件モ亦下院ノ特権ニ附スベシ

 第一 帝国ニ関係ス可キ事件ニ付キ新法ヲ起草スルノ権

 第二 往事ノ施政及ビ施政上弊害ノ鑑察改正

 第三 行政官ヨリ出セル起議ノ討論

 第四 執政官ノ劾告ヲ命令スル事

第十七條 下院ハ少ナクモ毎歳一回会議ヲ開ク 

  但シ少ナクモ三十日間ニ及ビ長キモ百日ヲ過ギズ通常会期ハ五月トナス

第十八條 皇帝陛下ハ自ラ須要ト思量スルトキ臨時会議ヲ開ク者トス

  第四欵 上下両院ノ通則

第十九條 上下各院ハ議員ノ権任若クハ其撰挙ニ関シ起リタル争訟ヲ裁審ス

第二十條 各院ハ其員外ノ者ヲ採リテ書記官ニ任命ス

第二十一條 凡ソ両院ノ会議ハ其両院ノ議員合議スルト否ヤヲ問ハズ公行トス

第二十二條 上下両院トモ其議員三分ノ一之ヲ求メ又ハ議長之ヲ須要トスルトキハ臨時会並ニ秘密会議ヲ為 ス

第二十三條 国王崩ジ又ハ其位ヲ空スルトキ又ハ事故アリテ国王政ヲ親ラスルコト能ハザル時預メ召聚ノ命 ナクモ国会ハ直チニ自ラ集会ス

  但(シ)此臨時会会期ハ崩シ若クハ空位ノ後第十五日ニ開ク

第二十四條 議事ハ半数以上出会ノ外開クヲ得ズ 

第二十五条 凡ソ決ヲ挙ルハ投票ノ過半数ヲ以テス

第二十六条 上下両院合同シテ議事ヲ開クトキハ上院ノ議長ヲ以テ議長トス

第二十七條 上下両院ノ安全及ビ其自由ヲ害スル者ハ其首従ヲ問ハズ逆罪タリ

第二十八條 各議院ハ皇帝陛下ニ向テ建議スルノ権アリ

第二十九條 各議院ハ公事若クハ公益ニ関スル事件並ニ国需其他立法上ニ関スル調査ノ為メ議員ノ中ヨリ委 員ヲ設クルコトヲ得此ノ委員並ニ議員ハ調査ノ為ニ必要ナル報告書其他等ヲ差出ス可キコトヲ口達或ハ書 面ヲ以テ執政官吏及人民ニ求ムルノ権アリ

第三十條 予算表ノ決定ニ由ルニ非ザレバ租税ヲ賦スルヲ得ズ予算表費額ノ決定書ニ由ルニアラズシテ国財 ヲ使用スルコトヲ得ザル者トス

第三十一條 上下両院ニ論ナク三回ノ会議ヲ経ルニ非ザレバ法律ノ議案ヲ決定スルコトヲ得ズ

第三十二條 各議院ニ於テハ事務ノ順序及ヒ取締ニ就テノ規則ヲ設クルヲ要ス

第三十三條 法案ノ発議ハ先ヅ各院ノ委員ニ於テ調査スベシ而シテ一ノ議院ノ已ニ承諾シタル者ハ他ノ議院 ニ送致ス又他ノ議院ノ承諾シタル後ハ皇帝陛下ニ呈シテ其許可ヲ受ク可シ

第三十四條 立法権三派(皇帝上院下院)ノ何レニ於テモ一タビ否拒シタル法案ノ発議ハ同時ノ集会ニ於テ 復タ用ユルコトヲ得ズ

第三十五條 国民ハ議院ニ向ウテ建言書ヲ進呈スルノ権アリ議院ハ委員ニ托シテ建言書ヲ調査セシメ而シテ 委員ノ陳呈ニ由テ主任ノ執政官吏或ハ主務ノ省庁ニ送付スベシ

第三十六條 日本普通ノ言語ヲ以テ両院職務上ノ言辞トス

第三十七條 上院及ビ下院ハ其職ヲ執行スル為メ発シタル論説公評ノ故ヲ以テ之ヲ侵スコトヲ得ズ

第三十八條 凡ソ上院若クハ下院ノ議員ヲ刑事法庭(廷)ニ提起スル時裁判官ハ全ク其審糺ヲ閣止シ本人附 属スル議院ニ之ヲ報知スベシ是時議院ハ提起セラレタル議員ノ審糺ニ着手スベキヤ該議員ヲ停職スベキヤ 或ハ停職ヲ要セザルヤヲ決定スベシ

  第五欵  立 法 権

第三十九條 大日本帝国立法権ハ皇帝陛下及上院下院合同シテ之ヲ行ウ

第四十條 皇帝陛下及ビ上下両院ノ承允シタル総テノ法律議案ハ大日本国法と成ル而(シテ)皇帝陛下之ヲ 公布ス

第四十一條 大日本国一切ノ法律命令若クハ決定貿易ノ條約彊域ノ変更国民ノ課務、徴兵法、貨幣、度、量、 衡ノ法其他立法上ニ関スル法令ハ上下両院ノ承認ヲ得ルニ非ズシテ決行スルコトヲ得ズ 

第四十二條 皇帝陛下ハ其理由ヲ陳スル宣旨ヲ以テシ又ハ委員ニ任ジテ法律議按又ハ其他ノ起議ヲ下院ニ附ス

第四十三條 両院ハ委員調査ノ後ニ非レバ皇帝ノ下附スル何レノ起議ト雖ドモ総会議ニ於テ討論セズ

第四十四條 両院ハ皇帝陛下ノ起議ヲ改廃スルノ権ヲ有ス

第四十五條 両院ハ法律議案ヲ皇帝陛下ニ奏上スルノ権ヲ有ス

第四十六條 法律議按ヲ除クノ外両院ハ各別ニ其他ノ諸起議ヲ皇帝陛下ニ奏上スルコトヲ得

第四十七條 皇帝陛下ハ努メテ急ニ両院ヨリ奏上セル法律議案ノ允否ヲ之ニ報知ス

第四十八條 国法公布国内施政ノ方法総則並ニ執行ノ力ヲ与ウル期限等ハ法律ヲ以テ定ム

第四十九條 上下ノ両院ハ皇帝陛下ト共ニ受用スル方法権ノ外ニ左ニ掲グル職掌ヲ有ス

 第一 皇帝、太子、執政官吏ヲ(シテ)国憲及法律ヲ遵守スルノ誓詞ヲ宣ベシムルコト

 第二 不得已ノ時機ニ於テ執政官ヲ撰挙シ及幼稚ナル皇帝ノ太保ヲ命ズルコト

 第三 下院ヨリ諭告セラレテ上院ノ審判ヲ受ケタル執政官吏ノ責罰ヲ実行スルコト

第五十條 上下両院トモ大日本適応ノ国憲法ノ議定奏聞採可ヲ得ルノ権ヲ有ス

  第六欵  施行年度

第五十一條 前欵條ノ権限認可ノ上来明治十四年度ヲ以テ実施スル者トシ皇帝陛下ハ本年内ニ総テノ命令ヲ 公告セラレンコト



【注記】

※翻刻に当たっては、旧字体を新字体にし、旧仮名遣いを現代仮名遣いにした。「国民」の文字を赤色にし、推定した部分は(  )で補記した。原資料の「国会懇請草案」(活版小冊子11頁)は、三鷹市の吉野泰平家文書と大阪経済大学所蔵の杉田文庫にある。『明治前期の憲法構想』(福村出版1967年初版)を適宜参照した。

 



《総房共立新聞社主の時代》



1881(明治14)年6月12日の日曜日に、総房共立新聞の第1号が発刊される。社長は桜井静、編集担当の局長は民権派ジャーナリスト西河通徹(愛媛県出身)で、隔日刊であった。新聞発行の目的は、千葉県における本格的な民権派の政論新聞を目指したものであった。総房共立新聞は現在、国立国会図書館や千葉県立中央図青館においてマイクロフィルムで閲覧できる。

創刊号の社説は次のように述べている。「いやしくも我が総房の地の如きは、幅員40里にわたり人口150万に満ち、且つ首府と相隔る一葦水、東京の文物流入、競って進入するの地勢なるを以て、これを他地方に比し自ら百事先を制すべきの置位に居るものなり(後略)」。千葉は東京に近いから、東京の影響を受けやすいという指摘は誰でもする。この社説のように東京に対して,「百事先を制すべき」であると主張する説はめったにない。東京より一歩先を行くべきであるという見解は千葉県民にとって卓見ではあるまいか。

さらに創刊号の社説は述べている。「今日より以降各地同業の諸社と共に我が社会の文壇上に自由の旗職を立て、大は全社会の形勢に向って刺衝を試み、小は我が総房地方の進歩改良に寸分の助力を与うるを以て、自ら任ぜんと欲するなり(後略)」。窮極の目標は立憲政体の樹立であるが、言論を武器に房総地方の「進歩改良」に貢献することによって目標を達成しようとするものであった。

6月12日の創刊以後、途中何度か弾圧のために総房共立新聞は休刊を強いられた。しかし何とか翌年の1882(明治15)年10月まで新聞の発行を続ける。その1年半余の期間、社説欄には立憲政体について、地方自治について、地方の開拓についてなどさまざまな論題が掲げられる。株主数は1000余人、読者数は約3000人であったので、総房共立新聞が房総の自由民権運動の発展に寄与した功績はきわめて大きかったといえる。60近い房総の民権結社の活動の様子が、総房共立新聞に記事として掲載されている。民権結社の数が大変多かったことを認識することができる。

総房共立新聞社の廃業届は次のようなものであった。「右は明治14年6月2日発行免許を被り是まで発行致来候所、再々停止を蒙り将来の見込之無に付、目下停止中には候得共10月20日より廃業仕度、此段御届申上候也。明治15年10月21日。桜井静」。このとき桜井は25歳になったばかりであった。総房共立新聞の廃刊は、桜井にとって青春の第二の蹉跌であった。

なお植木枝盛は、この頃板垣退助に依頼されて、自由党の機関紙「自由新聞」の編集にあたっている。福島事件の直前のことである。そして同年の年末には、植木技盛は千葉県下の山武地方を遊説して歩いている。





《その後の桜井静》



総房共立新聞廃刊後の桜井静の思想については、1885(明治18)年3月に出版された『真理実行論』を読まなければならない。1882年の10月から1884(明治17)年にかけては,はとんど表だった言論活動はしていない。2度の挫折による彼の精神的ダメージはかなり大きなものがあったに違いない。1884年3月には、千葉県会議員の補欠選挙に立候補して当選している。

『真理実行論』は、桜井静が県会議員時代に執筆した著作である。「国会開設懇請協議案」を発表したときから約6年後、総房共立新聞廃刊の日から2年半後である。真理について桜井は,「天地創造の初より,既に存在して」いたと書いている。「真理は社会最大多数の公正なる結論なり」とも書いている。イギリス流の民権思想は、まだ彼の内面的世界で持続しているといってよいだろう。その後桜井静は、政治制度や植民開拓問題などを研究する必要を痛感して、1887(明治20)年にアメリカ合衆国とカナダを巡視し、半年あまり滞留した。桜井にとって初めての洋行である。帰国後1890(明治23)年7月には、第1回衆議院議員総選挙に山武郡から立候補する。残念ながら第1回目は板倉中に敗れて落選してしまうことになる。

1893(明治26)年に北海道に波り、忍路(おしょろ)郡塩谷(しおや)村に大きな農場を開いた。1902(明治35)年8月には、郷里の山武郡から第7回衆議院議員総選挙に立候補し、このときは当選する。さらに翌年3月の第8回総選挙にも当選している。政党の所属は憲政本党(立憲改進党系)である。同年齢の植木枝盛は、第1回の衆議院議員総選挙に高知県から立候補して当選するが、1892年(明治25)1月東京の病院で他界してしまっている。



衆議院議員当選証書(1902年8月)




 



《晩年》



衆議院議員の頃、旧友の田中正造とのかかわりから、足尾鉱毒問題について質問をしている。桜井静の生涯の最後の光芒である。「諸君、私は24、5年前の友人田中正造君にこのごろ邂逅致しました。23年目でございまして、その間たえて会いませんでございましたが、鉱毒の実況に就きまして、同君より委細説明を受けまして、同情の念より紹介を致します。(略)この間政府は何等の救護策を施されましたか。1府5県に渉る有害地の調査は政府は如何にされましたか、この点を詳細に説明を得たい(後略)」。1903年(明治36)6月5日のことであり、出典は官報号外『第18帝国議会衆議院議事速記録第11号』(印刷局1903年)である。桜井静が晩年、国会において足尾鉱毒問題を取り上げたことを、忘れてはならないと私は考えている。

桜井静は日露戦争中の1905(明治38)年1月に大連に渡り、同年8月25日大連の開発をめぐって軍部と対立しピストル自殺をした。47年の短い生涯の幕を閉じたのであった。桜井家の墓所は千葉県山武郡芝山町小池にあり,そこには静(至浄院義誠居士)とともに妻千可子(松寿院政順妙真大姉)が、杉林に囲まれ安らかに眠っている。地元の芝山町からは、1990(平成2)年に、桜井静先生を偲ぶ会編『国会開設に尽くした孤高の民権家桜井静』(芝山町)が刊行されている。




参考文献】後藤靖著『自由民権』(中公新書1972年)  佐久間耕治著『房総の自由民権』(崙書房1992年)


 






















【人物memo】
田中正造 たなかしょうぞう 1841(天保12)年~1913(大正2)年
★下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)に生まれる。1857(安政4)年に村の名主となり、明治維新後一時江刺県(現秋田県鹿角市)の官吏となった。
★1880(明治13)年に栃木県会議員に当選(のち議長)、自由民権運動に加わって県令三島通庸と対決する。1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙に改進党から立候補して当選した。
★渡良瀬川の大洪水で鉱毒事件が顕在化し、1891(明治24)年から議会で鉱毒問題を取り上げた。それは彼の生涯の中心課題となった。
★1901(明治34)年議員を辞し、天皇への直訴事件をおこした。1904(明治37)年には被害地谷中村に入り、鉱毒反対運動のなかで生涯を閉じた。
★第2次大戦後、公害反対運動の高まりとともに、田中正造への関心が高まった。
★参考資料『世界歴史文化年表』CD-ROM(講談社)





桜井静の生涯(年譜)

【少年時代】
1857(安 4)年・・・10月10日吉川家で誕生、父民七、母たつ(略伝・弔詞・戸籍)
1869(明 2)年・・・2月宮谷県設置(千県)
1870(明 3)年・・・宮谷県租税課出仕(列伝)
1871(明 4)年・・・11月木更津県成立(千県)
1872(明 5)年・・・木更津県租税課出仕(列伝)
1873(明 6)年・・・6月千葉県成立(千県)
            千葉県租税課転任(列伝)
1875(明 8)年・・・出京遊学(列伝)                
1876(明 9)年・・・二川村小池の桜井家養子(略伝)
1877(明10)年・・・民撰議院設置之議建白(元建)
1879(明12)年・・・現行政体ニ付強請之議(元建)
            国体変革之議(元建)

【自由民権時代】
1879(明12)年・・・6月国会開設懇請協議案(桜文・髙文・吉文)    
             朝野、郵便報知等掲載(朝野・郵報)
             北海道・岩手・秋田・新潟・福島・栃木・茨城・静岡・長野 ・京都・福井・岡山・広島等に反響
             国会懇請草案起草(吉文・杉文)
1880(明13)年・・・1月国会懇請草案を新潟新聞掲載(新新)                 
             2月地方連合会創立主意書(桜文・竹文)   
             5月地方連合会解散、投獄20日(桜文)
1881(明14)年・・・6月12日『総房共立新聞』創刊(総新)
             10月自由党結成会議参加(自名・朝野)
1882(明15)年・・・6月株主募集のため南房総旅行(総新)
             10月20日総房共立新聞社廃業(東聞)
1884(明17)年・・・9月県会議員補欠選挙当選(千議)
             歩兵科学校設立出願(叢伝)
1885(明18)年・・・3月『真理実行論』出版
             5月県会議員辞職(千議)
1887(明20)年・・・アメリカ合衆国とカナダを巡視(千新)        
1888(明21)年・・・9月齊藤和助宛書簡(齊文)
             11月千葉中正党結成(東新)
             高橋喜惣治宛書簡(髙文)

【国会開設以後】
1890(明23)年・・・7月第1回総選挙落選(一覧・千議)
1893(明26)年・・・桜井農場経営(桜文・図録)
1895(明28)年・・・『神人論』出版
1896(明29)年・・・3月進歩党結成(総年)
1898(明31)年・・・6月憲政党結成(敬日)                             
            11月憲政本党結成(敬日)
            憲政本党入党(弔詞)   
1902(明35)年・・・8月第7回総選挙当選(一覧・千議)
            『続神人論』出版
1903(明36)年・・・3月第8回総選挙当選(一覧・千議)                       
            6月田中正造と会談(田全)衆議院で鉱毒問題質問(衆速)
1904(明37)年・・・3月第9回総選挙落選(一覧・千議)
            『神人万能観』出版
1905(明38)年・・・1月大連渡航(弔詞)
            4月22日養父吉造他界(町史)                         
            8月25日自尽、満47歳(略伝)
            9月29日満州大連で埋骨式(弔詞)
1912(大元)年・・・8月3日田中正造が桜井家訪問(田全)
1913(大2)年・・・長男理行他界(国桜)
1922(大11)年・・・千葉寺に記念碑(国桜)
1938(昭13)年・・・妻千可子他界、法名は「松寿院政順妙真大姉」(国桜)

※典拠資料略称一覧
・略伝(総洲桜井静先生略伝)・弔詞(佐原七郎及び円谷胖治弔詞)・戸籍(吉川家戸籍謄本)・千県(千葉県史)・列伝(衆議院議員候補者列伝)・元建(元老院編建白書一覧表)・桜文(桜井家文書)・髙文(高橋家文書)・吉文(吉野家文書)・朝野(朝野新聞)・郵報(郵便報知新聞)・竹文(竹澤家文書)・新新(新潟新聞)・総新(総房共立新聞)・自名(自由党会員名簿)・東聞(東海新聞)・千議(千葉県議会史)・叢伝(房総名士叢伝前編)・千新(千葉新報)・齊文(齊藤家文書)・東新(東海新報)・図録(平成23年度芝山町史企画展図録)・総年(近代日本総合年表)・敬日(原敬日記)・一覧(衆議院議員総選挙一覧)・町史(芝山町史)・田全(田中正造全集)・衆速(衆議院議事速記録)・国桜(国会開設に尽くした孤高の民権家桜井静)



 

香取地域 香取の商人自由党員 石田直吉(next page)  click

房総自由民権資料館(back to home page)  click



*** 室終了   back to top  ***