千葉・東葛地域  
民権派代言人  
   板倉中・比左    
大阪事件と房総の民権家


NAKABA  ITAKURA
and his wife HISA



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 《contents》


 (1)板倉中のプロフイール

 (2)板倉比左 :女性民権家から社会主義婦人同盟へ

 (3)人物 memo・景山英子

 (4)「明治憲法」発布前後の政談演説会

 (5)新庄克己(準備中)

 (6)東葛飾郡の民権家(準備中)






 《板倉中のプロフイール》
1856(安政3)年9月〜1938(昭和13)年3月 





 

 

板倉中はもっと注目されて、本格的に研究されるべき民権家である。


私は学生時代に、茂原市に住んでおられた板倉中の息子夫妻を訪問したことがある。そのとき、すでにかなり高齢であった。紹介者もなく初めて訪問した学生に対して、所蔵の資料を気軽に貸して下さった。その後御夫妻共他界されて、直系の子孫は現在茂原市周辺には誰も残っていないと思う。

板倉中の「墓碑」は長生郡白子町の玄徳寺にある。板倉中を顕彰する「記念碑」は、茂原市の茂原公園のなかにある。白子町役場の隣にある歴史民俗資料室には、板倉中に関する資料が展示されている。

板倉中は1856(安政3)年9月に誕生した。君塚省三と同年齢で、桜井静よりは1才年上である。フランス法学の大家であった八代操の講法学舎や、大井憲太郎の設立した明法学舎で学び、1880(明治13)年に代言人試験に合格して弁護士資格を取得した。当時は弁護士のことを代言人(だいげんにん)といった。

房総の自由党員で代言人は、板倉中と新庄克巳の2人しかいない。加波山事件蜂起者の富松正安は千葉県内で逮捕され、裁判は千葉町(現千葉市)で行われた。富松の弁護は板倉が担当した。

大阪事件の公判のため、板倉中は1887(明治20)年5月に大阪へ出発した。中心人物の大井憲太郎や佐原町(現佐原市)出身の飯田喜太郎(薬店商)の弁護を担当するためであった。

次のような弁論が印象的である。「被告等はその平生執る所の自由平等の主義より推して、博く愛しあまねく憫れむの心、己れの憂苦を以て彼れの痛苦を察し、遂に彼れの独立を助くれば、朝鮮国の為めに利益なるは勿論にして、亦我が内国の為めに毫も害なきを信ぜし(後略)」。(松尾章一解題『大阪事件関係史料集上巻』日本経済評論社1985年)

板倉中はその後、千葉県会議長や衆議院議員を歴任し1938(昭和13)年3月に81才で死去した。妻の板倉比左は1861(慶応元)年11月に誕生し、1941(昭和16)年1月に病没した。  




板倉中・井上幹連名書簡(齊藤自治夫宛)





1884(明治17)年11月2日



     【書簡解読】
     「
益御清勝奉賀候
     扨当地大会ニ於テ解党ト
     相決シ候間頗ル緊要的
     ノ御協議申度候間
     来ル十六日ヲ期シテ千葉町ヘ
     御来会被下度委細ハ
     拝眉ヲ期シ候也 不尽
     在大阪  
     十一月二日  井上 幹(印)  
            板倉 中(印)  
     齊藤和助様 外諸君御中
」 

※自由党大阪大会において、板倉中等は
解党反対の立場であった。(『房総の自由民権』崙書房1992年) 



《板倉比左 ・女性民権家から社会主義婦人同盟へ》
 
1861(慶応元)年11月〜1941(昭和16)年1月


民権運動に参加した房総の女性としては、岩倉具視邸へ国会開設の請願をした千葉県平民「太田こと」や、下埴生郡北羽鳥村(現成田市)の「新橋こう」の名前が知られている。今回は自由党員で「人民の代言人(弁護士)」であった板倉中の妻の、板倉比左について書いてみようと思う。

夫の板倉中は大阪事件において大井憲太郎の弁護を担当した。当時千葉県の民権家は獄中の大阪事件被告の救援活動に当たった。一八八七(明治二O)年八月一二日の「めざまし新聞」には、獄中の女流民権家影山英子を励ます板倉比左の書簡が掲載されている。

「悲しきは御志ざしも果し給はず、あらびたる囚獄の中の御住ひ、珠に男子のみにて同志の友に女子とては一人もなくあけくれ、徒然に御遇し遊ばされ候御心の中、さこそとおもひはかられて、御いたはしさの限りに候(後略)」

同書簡には自作の歌も二首添えられている。

「難波江の あらき浪路に 身をつくし 心を尽す 世ぞあじきなき」

「大丈夫も 恥ぢやしめ(る?佐久間註)らん 世を思う 君がまことの やまと心に」

新羅愛子著『千葉県女性人名辞典』(青史社一九八四年)は房総の女性史研究にとって貴重な文献であるが、残念ながら女性民権家はほとんど発掘できていない。板倉比左の後半生については「明治四O年二月十二日社会主義婦人同盟よって、治安警察法第五条(女子の政治結社・政談集会の禁止等)の改正請願書が衆議院に提出されたが、署名人の一人であった」と解説している。

★板倉比左の墓は、夫と共に白子町の玄徳寺にある。御子息の故板倉順氏が建てた墓碑である。碑文のメモを紹介し、御冥福を祈ると共に、今後の女性民権家研究の進展を期したい。

秀峯院殿比左刀自南総茂原名家松本氏之出 / 慶応元年十一月十六日誕生(中略)/ 資性温良貞淑有婦徳能整家政使無後顧之憂内助 /  之功尤大矣平素好咏和歌又嗜生花茶道皆極 / 其妙矣昭和十六年一月十一日病没享年七十七 / 有歌集若干巻(後略)






【人物 memo】

景山英子 HIDEKO KAGEYAMA 1865(慶応元)年〜1927(昭和2)年
★岡山藩士の次女として生まれた。1882(明治15)年岸田俊子の演説を聴いて女性解放を志し、翌1883(明治16)年女子教育のために夜間部をもつ私塾「蒸紅学舎」を母とともに設立する。また岡山に自由民権運動が波及すると「女子懇親会」を開くなどした。
★上京し大井憲太郎らと自由民権運動を進め、1885(明治18)年には朝鮮の内政改革運動に参加して資金調達などを担当し、逮捕投獄され紅一点として有名になる。1889(明治22)年に出獄した。大井とともに関西各地を遊説し、やがて1子をもうけるが離別する。
★1892(明治25)年、アメリカ帰りの社会運動家福田友作と結婚した。1907(明治40)年雑誌『世界婦人』を創刊し、海外の婦人参政権運動の紹介などを通じて女性の政治的独立を主張した。
★この間、治安警察法5条の改正に反対する請願運動を起こし、田中正造を支援して足尾鉱毒事件の犠牲者となった谷中村民の救済に尽くした。
★参考資料『世界大百科事典』CD-ROM(日立デジタル平凡社)






板倉中・比左夫妻の墓

 

長生郡白子町の玄徳寺


 



《「明治憲法」発布前後の政談演説会 》



今年(1997年)の5月3日は日本国憲法施行50年であった。明治憲法(大日本帝国憲法)の方は1889(明治22)年2月11日に発布されたから、108年前の出来事である。明治憲法は発布がそのまま施行であった。

108年前の様子については、中江兆民の論評がよく知られている。「未だ其実を見るに及ばずして、先ず其名によふ、我国民の愚にして狂なる」。幸徳秋水著『兆民先生』(岩波文庫1960年)の記述である。中江兆民自身の言葉では、「いまだ少も見聞せざる憲法を鎮護符の如くに想像すること、これぞ今日全国狂喜の原因」(松永昌三編『中江兆民評論集』岩波文庫1993年)と書かれている。1889年2月10日の「東雲新聞」に発表された論説である。

私はこれまで兆民の言葉の一面だけを過大評価して、当時の日本の民衆はこのようなレベルであったのかと思いこんでいた。しかし明治憲法発布前後の房総の民権運動を調べるにつれて、当時の民衆は決して「愚にして狂」ではなかったと考えるようになった。

確かに千葉県下各地の盲目的な祝賀会の様子が沢山報道されている。しかしそれと同時に、憲法の内容に関して房総の民権家たち(民衆)が強い関心を抱き、競って憲法の印刷物を購入したことを伝える新聞ニュースも残っているのである(史料1)

またこの頃になっても千葉県下では、政談演説会の熱は冷めることなく、同年2月10日には天羽郡、周准郡、望陀郡、3郡合同の政談演説会が天羽郡湊済寺で行われている(史料2)。12日には望陀郡久留里真勝寺や匝瑳郡原方村で政談演説会が開催された。

2月17日には市原郡鶴舞の龍渓寺で有志懇親会と政談演説会が行われた(史料2)。明治10年代は市原郡は民権運動のもっとも低調な地域であったが、この日は300名も結集した。2月24日には香取郡の佐原で自由政談演説会が行われた(史料3・史料4)。香取郡は以前から民権運動の活発な地域である。

史料2の政談演説会に参加している能城梅之助(安房郡・豪農で元教師)、新庄克己(千葉郡・弁護士)、加藤淳造(安房郡・医師)は元自由党員である。自由党は5年前に解党してしまっている。在原八五郎(天羽郡・豪農で元教師)は民権結社三省社の幹事でこの頃は県会議員である。

史料3の政談演説会に参加している板倉中(この頃千葉郡・弁護士)も元自由党員である。千葉禎太郎(市原郡・豪農)は県会議員で翌年7月の第1回衆議院総選挙に市原郡から当選を果たす。

史料4と史料5に登場する中村八太郎(山辺郡・豪農か?)、高城啓次郎(香取郡・豪農)、高野麟三(香取郡・豪農)の3名は元自由党員である。飯田喜太郎(香取郡・薬屋)は大阪事件の被告であった。出獄まもない山田嶋吉(長狭郡・中農で元教師)は急進的な民権家で秘密出版事件で投獄されていた。憲法発布の恩赦で出獄したのである。かつて天皇批判の演説が問題となり不敬罪を適用され投獄されたこともある。山川善太郎(京都府出身・新聞記者)もやはり秘密出版事件で投獄されたことがある。山川は「憲法」と「集会言論」について演説している。

最近私は、この時期の房総の民権運動を再検討する必要があると考えている。


 東海新報資料



[史料1](東海新報1889年2月14日)*東海新報の社主は板倉中 *1889年は明治22年

●東海新報社前人の山を為したり本社は一昨十二日の本紙へ憲法、議院法、撰挙法、会計法等総て印刷し大附録として早くも同日未明より配達せしを以って非常の大喝采を得一昨日来昨夕に至るまで之を購はんと本社へ詰め掛け来る者引も断(き)らず、且つ彼の空気球に附して発したる切符と引換を申るヽ者遠近より踵を接して本社に到り、昨日午後の如きは社前実に人の山を為し非常の景気なりしが目のまわる程の忙しさに愚痴を飜(こぼ)せしハ独り本社の受付人なりし



[史料2](東海新報1889年2月14日)

●天羽、周准、望陀政談演説会並びに懇親会は、兼て広告に見へたる如く去る十日午後一時より天羽郡清村湊済寺に於て開会、午後六時閉会せしが会場の門前には数十個の球燈を掲け(正義赫赫輝天地)(愛国丹心軽萬死)と大書したる大旗二旒を掲けたりし、出席弁士は第一(開会ノ趣意)林廉蔵、第二(国権盛衰論)高梨倉吉、第三(一喜一憂)宇野祐太郎、第四(輿論ハ治国ノ良薬ナリ)泉水宗助、第五(在野政党ニ望ム)永田喜一郎、第六(泉アレハ川ナカル可ラス)法木雄太郎、第七(国ハ人民ノ私有物ナリ)能城梅之助、第八(今日ニ當テ自由ヲ拡張セサレバ將タ何レノ日ヲカ期セン)島野文次郎、第九(国家ノ基礎)新庄克巳、第十(代議制ノ精神ハ撰挙ニアリ)山川善太郎、等の諸氏にして聴衆は凡三百七八十名なりし、右了りて更に午後七時より湊村福本楼に懇親会を開き午後十一時過ぎ閉会して会場の楼上、楼下及び戸外へは数百個の球燈を掲け悉く点火し随分見事のことにてありしと、席定るや茂木新蔵氏開会の旨趣を述べ次に高梨芳松、山川善太郎、在原八五郎、能城梅之助、新庄克巳、宇野祐太郎、林廉蔵、法木雄太郎、永田喜一郎、高梨倉吉等諸氏の席上演説あり会する者百十八名なりしが酒莚を開くに際り会主より各会員に(天周望三郡懇親会天羽発起)と記したる大盃を会員一名に付き一個つゝ出されたり、比一事を以て見るも同会発起者が充分尽力計画したることを推知するに足るべし、同会には房州より加藤淳造氏も態々来会されたりと(後略)



[史料3](東海新報1889年2月21日)

●第四回市原郡有志懇親会及び政談演説会の景況 昨日の紙上に豫め約し置きたる同会の景況は実に意外の盛況にして夜来の降雨と暁頃の迅雷とにて道路の泥寧なるが為めに来会者も如何あらんかと発起人諸氏も頻りに心痛せられたるにも拘はらず午前より石川村龍渓寺なる政談会場には続々聴衆の来会する者無慮三百名余、木村千葉警察署長には巡査数名を率ひて臨会せられたり、弁士は
板倉中氏小林伊作氏にて比日板倉氏は議員撰挙法を論ずとの演題(同氏が数日来東海新報社説欄内に論じたる 主意の未だ尽きざる所を重に補述せられたる者なりと)にて前後二回に切りて堂々二時間余の演説を為し、更に登壇して如何なる政党か尤も国民に益あるとの題にて各政党の長短特失を比較論述せられたり、次に小林伊作氏は治者被治者の関係を論じて内治外交について其利害を痛論せられたり、時既に点燈後に至りしを以て比れにて閉会を告げ、更に鶴舞大和楼に懇親会を開きしが会員の会場に入らんとする際奏楽あり其音喨々人をして一層の爽快を覚へしめたり、会する者百余名既にして発起者総代として賀曾利初太郎氏開会の趣意を述べられたるが議論尤も痛切なりき、次に千葉禎太郎氏登壇して我を起す者は敵なりとの趣意を以て例を古今に取りて演説せられたるハ亦以て同氏の胸襟の濶太なるを示すに足れり、尚ほ小林板倉両氏の有益なる演説ありて更に奏楽あり数名の紅裙(くん)宴を助け一同歓を尽して最終の奏楽ありて散会せしハ午後十一時頃なりき、毎々ながら市原郡の人心の興起せる思ひ見るべきなり



[史料4]
(東海新報1889年2月27日)

●佐原政談会と懇親会の概況 曾て本紙の広告にもありし二十四日香取郡佐原町旭座に開かれたる自由政談演説会は聴衆無慮五百名場中立錐の地なき程の盛況にて、各弁士の演説は何れも拍手喝采を得し中にも
山田嶋吉の如きハ出獄間もなく未だ身体の健全に復せざりしも其立論の確乎たると雄弁にして活発なるには聴衆も大に驚嘆し、次に山川善太郎氏第二席の演説は是亦大喝采にて右山川氏前席の演説を終り休息の間に会主は聴衆に向ひ千葉立真会社より本日の景況を掲載したる東海新報百枚外に同新報一ケ月分と半ケ月分を無代進呈の切符を態々本会に寄贈されたれは鬮引を以て諸君に配布すれば来る二十八日後当地立真舎にて引替らるべしと告たるに、聴衆は個ハ面白しとて各々進んて抽籤し乃ち第一番のものへ半ケ月分第百一番のものへ一ケ月分其余の当り鬮へは一枚ツゝの切符を渡したるは近頃の好趣向なりとて中々の賞賛を受けしと、又同夜浮島楼に開きたる懇親会は有志五十余名にして、先ず会主は本日出演せられし弁士の慰労と飯田喜太郎氏監視赦免の喜びを兼ね開会したりとの意を述べ、且山辺郡の有志中村八太郎氏の幸ひに当地に来遊されしを以て爰に招待したりと告げ飯田中村両氏山田山川等の諸氏各一席の演説あり、是亦近頃になき盛会にてありしと該地より通信



[史料5]
(東海新報18892年2月28日)

●佐原政談会の続報 去る二十四日を以て香取郡佐原町旭座に開きたる政談会の概況ハ前号の紙上に記載せしが、尚其後報に依れバ聴衆は無慮八百名以上に及び後れて来しものは入場を謝絶せし程の盛会にて、第一席にハ会主木村子之助氏開会の趣旨を演じ、第二席は高城啓次郎氏民間の準備は如何といへる題に付て満腹の議論を吐き、第三は
高野麟三氏吾人が自由幸福を全からしむる策如何との題にて滔々演述し、第四席は山田嶋吉氏政党とハ何ぞや、第五席は山川善太郎氏憲法を奉読す、集会言論の盛大の二題にて何れも非常の喝采を博し近来珍しき盛会にてありしと







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*** 室終了 ***