薫陶学舎
 kuntougakusya


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2夷隅の豪農自由党員 井上幹(next page)

 

 





     《contents》


   (1) 民権私立学校 ・薫陶学舎(銅版画)

   (2) 井上幹と薫陶学舎関係新聞資料

   (3) 井上幹の墓


 

 





千葉県夷隅郡大原町上布施にあった民権私立学校 (銅版画)
1880(明治13)年〜1885(明治18)年



Democratic Private School
in Kamibuse Oharamachi Isumi County Chiba Prefecture
1880(Meiji13)〜1885(Meiji18)






《井上幹と薫陶学舎関係新聞資料》
1880(明治13)年11月〜1886(明治19)年10月


 newspaper data about INOUE MIKI and kuntougakusya
1880〜1886

 



(1)民権結社「以文会」の結成
 千葉県下夷隅郡にて中村権左衛門、峰島六郎左衛門、高梨正助、宇佐美金七郎、丸八二、井上幹、鈴木丹二、吉野朝吉、柁勝五郎、中村孝等が会幹となりて、本月十五日大原駅の竹楼に同郷親睦会を開きしに来会する者百余名あり。会幹より先つ本日開会の趣旨を演述して後、国会開設を請願すべきの議に渉りしに会員皆な同意を表せしかば、結社規則及諸事整理のため委員九名を撰定し社号を以文会と名け来年一月中に演説会を開き広く社員を募り、併せて国会開設請願の有志輩を結合する事に決したりと云ふ。
(「郵便報知新聞」1880年11月22日)



(2)産業結社「精農社」を設立
 千葉県下上総国夷隅郡の小高貫三、井上幹、中村義利の三氏は常に農事に篤志の人なりしが、此頃同地の有志者を語らひ精農社と云ふを設け、専ら農事を改良し物産繁殖の道を講せらるる(後略)。
(「東京横浜毎日新聞」1881年2月9日) *井上家文書によれば開業式は明治14年2月20日。



(3)薫陶学舎の校舎建築
 夷隅郡布施村井上某氏は旧来の豪農なるが深く文学を嗜み夙に該郡学事の振起せざるを慨嘆し如何せば可ならんと積年苦慮するの余り一旦豁然として一大私立学校を創設せんとするの意を起し客年六月より大に土木を萃め此ほど工事を竣る実に一大学舎を成せり、於是英学並びに漢学教員を東京より聘し大学予備門に倣ひ教則を編し(後略)。
(「総房共立新聞」1881年11月11日)



(4)訂正記事
 本誌前々号に井上幹氏が一の学舎を創設し郡内人民をして就学の便を得せしめんとて去る三日を以て其開業の典を挙ぐ云々と掲載せしが稍々誤聞に属するところもあればここに其誤を正さんとす抑も同氏が這回其邸内に建設せし校舎は二層楼にて外観を洋風に擬し英学漢学二名の教員を聘し来る十五年一月を以て開業の目途なりもっとも土木は略ぼ功を竣りたれども目下其筋へ伺い中なれば直ちに開校の運びにも至らぬ様子なり(後略)。
(「総房共立新聞」1881年11月15日)



(5)薫陶学舎創立の広告
 此般黌舎ヲ新築シ来ル十五年一月八日ヨリ英漢数学ヲ教授セントス有志ノ諸君来学アレ   明治十四年十二月      上総夷隅郡上布施村百七十二番地    薫陶学舎
(「総房共立新聞」1881年12月27日)




(6)嶺田楓江が薫陶学舎へ
 小生儀今回本県下夷隅郡上布施村ヘ転居候ニ付此段辱知ノ諸君ニ報ス   十五年一月十日    薫陶学舎内   嶺田楓江   
(「総房共立新聞」1882年1月18日)



(7)薫陶学舎の景観
 其校は木造の二階家にして下を教場上を寄宿舎とし頗る壮麗にして庭前には植物園を設け和洋の花卉数百種を栽え生徒の遊園に充て而して本校維持の為め資本金千五百円田地五町五反歩を附属とし之に備ふ(後略)。
(「総房共立新聞」1882年6月3日)



(8)桜井静が6月29日井上家を訪問宿泊
 上布施村井上幹氏に至り一泊す氏は県下希有の学事熱心家にして甞て数千円の金を抛うち堅牢なる校舎を建築し一の上等私立中学を設けたりしが器械書籍充分に具はり教員亦其人を得たり本県下私立学校の第一と為すべし(後略)。
(「総房共立新聞」1882年7月9日)



(9)井上幹は自由党夷隅部を組織化するため遊説
 夷隅郡の以文会は此頃改革を為し愈々勢力を得て前途望を属すべき程になりたる由、又同会幹事の一人なる井上幹氏は近頃郡内に例の立憲帝政党が現出したるを憤り更に一箇の自由党を結合し一論の下に之を撃破せんと一二の同志者と郡内に遊説を始めらるゝ由。
(「総房共立新聞」1882年9月17日)



(10)「精農社」が製紙場を設立
 夷隅郡精農社々長小高貫三氏は先頃大多喜へ一箇の製紙場を設けられ百方製紙の方法を購求せられしが其功空しからす此程に至りては清涼なる半紙を製出するに至れりと。
(「総房共立新聞」1882年10月4日)



(11)馬場辰猪と堀口昇が夷隅郡内を遊説
 十七日(中略)午後二時大原駅に達し直に旅宿竹楼にて演説会を開く。聴衆四百余人、余は馬場君と与に二題を論ず。此地は郡中有名の場所にて拍手喝采其機を失はず。同夜同楼に於て懇親会を開く。会員三十名なり(後略)。
(「朝野新聞」1883年4月28日)



(12)大原町竹楼で夷隅郡自由党員の懇親会
 去る二十四日千葉県夷隅郡自由党諸氏が同郡大原駅竹楼に於いて懇親会を開かれしに、志士の二十里内外より来会する者およそ百余名(後略)。
(「朝野新聞」1883年6月29日)



(13)嶺田楓江死去
 当黌教員嶺田楓江翁病気ノ処養生不相叶昨二十八日午前六時三十分死去致シ候此段辱知諸君ニ報ス    明治十六年十二月二十九日   千葉県上総国夷隅郡上布施村薫陶学舎幹事。
 (「自由新聞」1884年1月15日)



(14)薫陶学舎の生徒再募集広告
 今般更に良教師を聘し大学予備門其他官立府県立学校に入るの学力を養成す有志諸君来学あれ    明治十七年二月     千葉県夷隅郡上布施村薫陶学舎
(「朝野新聞」1884年2月23日)



(15)運動懇親会記事
 千葉県下夷隅郡にては井上幹、小高純一等の諸氏相謀りて去月三十日浅間山の麓に於て運動懇親会を開かれ、競争、毬集め、撃剣、綱引き、競馬等あり、自由万才或ひは掃除東洋卑屈弊と大署せし旗幟等を翻へし、一千有余名の壮士狼烟を打上げて鯨波をつくりしには、天地も為に震動する計りにして近来になき盛会なりしと云ふ。
(「自由新聞」1884年4月6日)



(16)井上幹らの検挙
 去る四日前七時千葉県夷隅郡発の報に曰く、只今当郡布施村の井上幹、石井代司両氏の宅へ警察官数名出張あり、二人とも大多喜警察署に引致せられたり(後略)。
(「朝野新聞」1884年12月7日)



(17)薫陶学舎に対する弾圧
 私立薫陶学舎閉校広告
 夙ニ教育ノ普カラザルヲ慨キ私ニ数年来育英ノ道ニ従事シタルモ其効著シカラザレバ断然志ヲ決シ十四年中更ニ英漢学ノ教員ヲ聘シ輪奐美ナラザルモ敢テ都会ダモ恥ザル学舎ヲ新築シ薫陶学舎ト命ケ過ル十五年三月開校ノ典ヲ行ヒ本県岩佐大書記官ノ臨場ヲ辱フシ学生又遠近ヨリ輳リ既ニ大学予備門其侘各官立学校ニ入ルノ子弟ヲ薫陶シタリ然ルニ這回突然ニモ船越県令ヨリ左ノ厳命ヲ蒙リ殆ト恐愕ニ堪ヘズ其学舎詮議ノ次第之アリ当初設置ノ認可ヲ取消シ来ル三十一日限リ閉校ヲ命ジ候此旨相達候事 鳴呼井上佐幾夫ハ月々数十円ノ金額ヲ抛チ本県下ニ未タ有ラザル英漢学ノ私塾ヲ起シ聊カ教育ノ進歩ヲ補ハント欲スルモ微衷達スル能ハズ遂ニ今日ノ終リヲ告ゲタリ此段謹デ広告ス
  明治十七年十二月二十八日       千葉県上総国夷隅郡上布施村 旧薫陶学舎幹事。
(「自由燈」1885年1月8日)



(18)夷隅事件の一審判決
 官吏侮辱の件に付、昨年来寒川監獄所に拘留されし千葉県夷隅郡旧自由党員井上幹、松崎要助、河野嘉七、岩瀬武司、吉清新二郎、久貝潤一郎、石井代司、田中常次郎の八名は去る二十日、千葉軽罪裁判所に於て各々重禁錮四ケ月罰金十円に処せられたり。
(「朝野新聞」1885年4月26日)






  
 井上幹の墓
 
  the grave of INOUE MIKI
 
 
千葉県夷隅郡大原町上布施
 
 kamibuse oharamachi isumi county
 chiba prefecture JAPAN




(19)井上幹らの出獄
 戸長侮辱の件を以て重禁錮の処刑となりし旧自由党員井上幹、松崎要助等七氏ハ、東京市ヶ谷の監獄分署に苦役中のところ、去る一日無事出獄せられたるが、当日ハ千葉県より板倉中君塚省三等の諸氏始め親戚旧党員の出京さるゝあり、在京の旧党員大井憲太郎、稲垣示、神山八弥等の諸氏及び有一館の生徒諸氏等も亦出獄を迎へんと、凡そ七十余名(後略)。
(「自由燈」1885年11月3日)




(20)井上幹の追悼会
 旧自由党員故井上幹氏ノ為メニ来ル十一月三日大原竹楼ニ於テ追悼会ヲ開ク同感ノ士ハ御来会アランコトヲ請、但来会ノ諸君ハ十一月一日マテニ下名ノ内ヘ御申込アルヘシ会費金五十銭当日持参ノコト 夷隅郡発起人(後略)。
(「千葉新報」1886年10月29日)






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